目黒製作所 略歴 


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出来事
明治29年
(1896年)
3月2日 ・鈴木高治が静岡県沼津で生まれる。
目黒製作所の初代専務、後に二代目社長を経てカワサキメグロ製作所会長。
初代社長、村田延治と共に目黒製作所を創立。
共同経営者としてメグロを育てた。
技術者出身であったが、経理に精通して優れた経営手腕を発揮した。
明治33年
(1900年)
4月1日 ・村田延治が栃木県足利で生まれる。
目黒製作所の創立者、初代社長。
戦前、戦後を通じてメグロを日本の代表的オートバイメーカーとして築き上げた。
大正4年
(1915年)
・村田が東京・麻布の友野鉄工所に就職。
経営者の友野直二の下でエンジンの技術を習得する。
友野氏は当時の日本における代表的エンジン技術者。
大正10年
(1921年)
・友野の紹介で、村田が伯爵:勝精が始めたエンジン工場の経営者になる。
勝精は最後の将軍:徳川慶喜の実子で、幕臣:勝海舟の養子になった人物。
大正11年
(1922年)
6月 ・工場の名称を村田鉄工所として友野氏から独立。
実質的なオーナーは勝精。
・鈴木高治が旧海軍・浦賀ドックの軍人技師を経て村田鉄工所に入社。
大正12年
(1923年)
・武蔵野工業の依頼で、ペダル始動のバイク用として60ccの2サイクルエンジンを100台製造。
大正13年
(1924年)
・勝精と友人の実業家(渋沢正雄、浅野良三)による出資で、ハーレーダビッドソンをモデルとした1200ccクラスのオートバイを3台試作。
「ジャイアント」と名付けるが、性能に不具合を生じて商品化に失敗する。
大正13年
(1924年)
・村田と鈴木が、勝精からの独立を企てる。
・鈴木が村田鉄工所を退職。すぐさま東京・大崎に、村田と鈴木の出資による鈴木鉄工所を設立。
大正13年
(1924年)
8月 ・勝精の理解を得て村田が独立、村田鉄工所を閉鎖。
・村田が鈴木鉄工所に合流して「目黒製作所」に改称。
工場の近所に「目黒」の名称が付く施設が多数有ったことに由来する。
大正14年
(1925年)
・自動車修理を主に営業活動を始める。
・丸石商会の依頼で、英:トライアンフ社のオートバイの修理用部品を製造。
徐々にエンジン部品の製造を拡大する。
大正15年
(1926年)
・モーター商会の依頼で、オートバイ「MSA号」の変速機を製造。
英:スターメイアーチャー社の製品を参考に開発して商品化に成功する。
昭和2年
(1927年)
・「メグロの変速機」としてブランド化に成功。日本製変速機メーカーとして知られる。
・世界に先駆けて、バックギア付き小型自動車(三輪車)用変速機を開発して商品化に成功する。
昭和5年
(1930年)
・道路交通法規の改正により、小型自動車へのバックギア付き変速機の搭載が義務化される。
メグロの変速機がいち早く開発に成功していたので、小型自動車(三輪車)用変速機のトップメーカーとなる。
・「メグロの変速機」のイミテーションを製造する業者が多数現れ、対策の為に工場設備を増強して対抗する。
・主要取引先の二葉屋が世界恐慌の影響で倒産、損失を被る。
昭和6年
(1931年)
6月14日 ・工場近所より発生した火災により被害(社屋全焼)を受ける。
加入してあった火災保険を基に工場を再建、同時に周辺に敷地を拡大して工場設備の最新化と増強を図る。
昭和6年
(1931年)
・チェーン駆動式差動装置(ディファレンシャル)を開発して商品化に成功する。
昭和7年
(1932年)
・日本内燃機の依頼で、軍用サイドカー「くろがね号」1200ccの変速機を製造納入。
昭和7年
(1932年)
11月 ・兵庫モーター製作所の依頼で、小型三輪自動車「H・M・C号」のエンジンを製造。
スイス:モトサコシ社のMAGエンジン(OHV 4サイクル単気筒498cc)を参考に開発して商品化に成功する。
・エンジン製造の為に、専門製造会社:昭和機械製作所を設立する。
村田延治の実弟が代表者を務める。
昭和8年
(1933年)
・小型自動車の区分が改正により4サイクルエンジンは排気容量750ccにまで拡大される。
これにあわせてスイス:モトサコシ社のD50型機関を参考にボアアップ改良した4サイクルOHV単気筒598ccエンジンを製作。
更にこれをロングストロークにした4サイクルOHV単気筒655ccエンジンを製作。
更に小型自動車の区分改正に適応した、水冷式OHV4サイクル45°V型二気筒750ccエンジンを完成させた。
・小型三輪自動車用シャフト駆動式差動装置(ディファレンシャル)を開発したが商品化に失敗する。
これを搭載した小型三輪自動車が販売不振に陥り、モーター商会が倒産する。
昭和9年
(1934年)
・工場設備に「グリーソンベベルギヤセーパー」という、当時最新の傘歯歯車の切削加工機械を導入する。
これにより、前年開発した小型三輪自動車用シャフト駆動式差動装置を改良して商品化に成功する。
また最新の設備と技術によって、目黒製作所には小型自動車産業から多くの引き合いを得るようになった。
・東京モーター用品製造組合の依頼で、純国産オートバイの試作用変速機を製造する。
名称「あいこく号」2台の試作車が完成するのだが、実用にならず純国産オートバイ製造計画は中断した。
昭和9年
(1934年)
10月 ・東京・井の頭公園でオートバイレースが開催される。
メグロは小型自動車用のMAGタイプOHV4サイクル単気筒498ccガソリンエンジンとメグロトランスミッションを搭載した ワークスレーサーマシンを開発して参加。
国産オートバイとしては最高の二位入賞となった。
以降、多数のオートバイレースに参加して優勝を重ねる。
昭和9年
(1934年)
11月 ・東京自動車製造の依頼で、FF方式による市販小型四輪乗用車「筑波号」の部品(エンジン、変速機、差動装置)を製造する。
水冷式OHV4サイクル45°V型二気筒750ccエンジン。三速メグロトランスミッション。シャフト駆動式差動装置。
昭和10年
(1935年)
・オートバイレースでの成績が優秀であったことから、メグロオートバイの製造と販売を企画する。
MAGタイプOHV4サイクル単気筒498ccガソリンエンジンとメグロトランスミッションを搭載。 フレームには多田建蔵(日本人初のマン島TTレース参戦者)の勧めで、彼が経営する輸入オートバイ店に入荷した「ベロセット」KSSモデルを購入して参考とした。
開発には、倒産したモーター商会から移ってきた日野文雄が主に担当した。
昭和12年
(1937年)
3月 ・「メグロ号」Z97が完成、メグロ最初の市販オートバイ製品となる。
東京・目黒の雅叙園にて完成披露宴を催行して、同業関係者のほか各界の有力者や新聞記者を招待してメグロオートバイの宣伝に努める。
昭和13年
(1938年)
・「メグロ号」Z97を改良したZ98を製造販売する。
Z98では既存の500ccモデルに加えて600ccモデルも用意した。
・友野鉄工所の依頼で、発電機用水冷直列4気筒4サイクルエンジンを製造。
昭和14年
(1939年)
・警視庁の交通パトロール用白バイとして、「メグロ号」は審査で高い評価を得て10台が採用される。
・昌和洋行の依頼で、2サイクル単気筒100ccのバイクを試作。
このバイクを量産するため、静岡県沼津に昌和洋行と目黒製作所の合弁会社:昌和製作所を創設。
鈴木高治の甥が工場長を務める。昌和製作所は後に独立してバイクメーカーとして活動するが倒産。
ヤマハ発動機の傘下に入り再建して、現在もパーツメーカーとして活動。
昭和14年
(1939年)
2月11日 ・目黒製作所を会社法人組織として改組、「株式会社 目黒製作所」とする。
社長を村田延治、専務を鈴木高治がそれぞれ務める。
昭和15年
(1940年)
・陸軍技術本部の要請で「メグロ号」Z98・500ccの軍事転用の性能調査を実施。
優秀と認められるが、軍用バイクとしての採用は見送られた。
昭和16年
(1941年)
・第二次世界大戦の戦局に伴い、日本国内での民需用オートバイの生産販売が規制される。
このため「メグロ号」Z98の販売を中止して、軍用のガソリン機関に関する部品の製造に専念する。
昭和16年
(1941年)
1月 ・日本製工業品の宣伝紹介と売り込みを兼ねた、オランダ領東インド(現インドネシア)への視察団に参加。
輸出を企てるため「メグロ号」Z98を持ち込み、現地にて好評を得るが戦局の悪化に伴い輸出事業は断念された。
昭和18年
(1943年)
1月 ・太平洋戦争の勃発により、軍需工場として活動。
軍需生産の設備拡充のため、東京・大森にあった田中工具製作所を買収して「目黒製作所・大森工場」とした。
田中工具製作所は敷地売却利益を基に千葉県へ移転、後にバイクメーカーとして田中工業となった。
・太平洋戦争の戦局悪化により、工場設備の疎開避難を計画。
昭和19年
(1944年)
・東京の本社工場の疎開先として、栃木県烏山に専売公社倉庫を買収移築して工場を建設。「目黒製作所・烏山工場」とした。
・工場設備の疎開先として、東京・五日市に工場設備を移動。
昭和20年
(1945年)
5月 ・アメリカ軍による東京への空襲攻撃で、東京の本社工場と大森工場が被災。
昭和20年
(1945年)
8月 ・8月15日の終戦に伴い、生産品目すべてが軍需製品であったために、生産活動を一時中断する。
・烏山工場は一時閉鎖となり、残務要員20人を残して他作業員を解雇とした。
昭和21年
(1946年)
2月 ・東洋精機より、小型三輪自動車「オリエント号」の変速機を受注製造。
昭和22年
(1947年)
・オートバイ製造による復興を決意して、事業再開の準備を開始。
昭和23年
(1948年)
・進駐軍司令部GHQの命令により、独占禁止法が施行されて企業集団の解体が実施される。
そのため昌和製作所はメグロから分離独立した。
昭和23年
(1948年)
5月 ・オートバイ製造を再開して、「メグロ号」500cc・Z型の販売を開始。
・メグロオートバイの販売店組織「メグロ会」を結成設立する。
昭和24年
(1949年)
・販売店組織「メグロ会」の一括卸売り先であった全国総代理店:神山商会が業績悪化のため倒産。
そのため全国総代理店制を改めて、地域総代理店への卸売りに変えて、新販売店組織「全国メグロ会」に改組した。
昭和25年
(1950年)
・アメリカ軍部より、当時統治下にあった沖縄・琉球政府の警察パトロール用として、500cc・Z型20台の受注を得て 米ドルによる取引で納入される。メグロにとっては戦後初の輸出であった。
・東洋精機の倒産により、小型三輪自動車「オリエント号」の変速機受注製造を終了。
・目黒製作所の役員であった阿部理八が独立して、オートバイメーカー:エーブモーターを起業する。
・エーブモーターより、4サイクル単気筒150ccバイクエンジンを受注製造する。
このエンジンが好評であったので、新興のバイクメーカー向けにBHK型バイクエンジンとして販売する。
昭和25年
(1950年)
10月 ・「小型自動車競走法」によるオートレースの開催が始まる。
メグロはレーサーマシンを開発して優秀な成績を得て、以降活躍する。
昭和25年
(1950年)
11月 ・250cc・J型の販売を開始。「ジュニア」と命名する。
J型は日本最初の250ccオートバイであった。
昭和26年
(1951年)
・村田延治の娘婿である村田不二夫がオートバイメーカー:モナークモーターを起業する。
英「ベロセット」を参考にしたバイクを製造して、スタイルと性能の良いことで評判になった。
昭和26年
(1951年)
1月 ・500cc・Z2型の販売を開始。
Z型のフロントフォークをテレスコピック仕様に改良したオートバイであった。
昭和26年
(1951年)
4月 ・鋳造部品製造の為に、専門製造会社:目黒合金鋳造所を設立する。
・フレーム製造の為に、専門製造会社:大和製作所を設立する。
昭和26年
(1951年)
12月 ・250cc・J2型「ジュニア」の販売を開始。
J型のボアxストロークを改良したオートバイであった。
昭和27年
(1952年)
4月 ・500cc・Z3型の販売を開始。
Z2型のリア懸架をプランジャー仕様に改良したオートバイであった。
昭和27年
(1952年)
8月 ・300cc・J3型「ジュニア」の販売を開始。
J2型のエンジンボアを増大したオートバイであった。
昭和28年
(1953年)
2月 ・500cc・Z5型の販売を開始。
Z97型以来の仕様を全面的に改良した新型オートバイであった。
・世界最初のバイク用ロータリー式トランスミッションを開発、Z5型に採用する。
好評になり、その後に多くのビジネス用バイクの変速機として用いられる。
昭和28年
(1953年)
4月 ・250cc・S型「ジュニア」の販売を開始。
軽自動車の法区分が250ccまでになった為、J3型を改良したモデル。
以降S−8型まで続くロングセラーシリーズとなった。
・300cc・J3A型「ジュニア」の販売を開始。
従来のJ3型に、S型用エンジンボアを増大して搭載したオートバイであった。
昭和28年
(1953年)
8月 ・350cc・Y型「レックス」の販売を開始。
上級モデルのZ5を意識した廉価仕様の新開発モデル。
Z5型の装備を搭載して好評となった。
昭和29年
(1954年)
2月 ・モトGPブラジルサンパウロにホンダと共に参加。
しかしながらコースでの練習中に転倒事故を起して欠場となる。
昭和29年
(1954年)
4月 ・250cc・S2型「ジュニア」の販売を開始。
S型の意匠を改良してロータリー式トランスミッションを搭載したオートバイであった。
昭和29年
(1954年)
5月13日 ・創業30周年を迎えて記念行事を開催。
昭和30年
(1955年)
5月 ・500cc・Z6型の販売を開始。
Z5型のホイールハブを全幅仕様に改良して、性能を向上させたオートバイであった。
・500cc・Z6型が、戦後初めて警察の白バイに採用された。
昭和30年
(1955年)
6月 ・125cc・E1型の販売を開始。
メグロブランドによる最初の125ccモデルのオートバイであった。
昭和30年
(1955年)
7月 ・650cc・T1型の販売を開始。
メグロブランドの最上級モデル。英「トライアンフ」などを参考にして開発されたオートバイであった。
昭和30年
(1955年)
11月 ・群馬県北軽井沢においてオートバイの耐久ロードレース(第一回浅間レース)が開催される。
メグロは500ccのカテゴリーにワークスレーサーで参加したが、入賞はできなかった。
・プレス部品製造の為に、専門製造会社:目黒鈑金工業を設立する。
昭和31年
(1956年)
3月 ・250cc・S3型「ジュニア」の販売を開始。
S2型の意匠と、ホイールハブを全幅仕様に改良したオートバイであった。
その後、ベストセラーモデルとして'59年までに31370台が製造されて、メグロで一番多く販売された。
昭和31年
(1956年)
4月 ・500cc・Z7型の販売を開始。
Z6型の意匠と、リア懸架をスイングアーム仕様に改良したオートバイであった。
・500cc・Z7型の愛称を公募により「スタミナ」と命名する。
その後、メグロブランドの代表的モデルとして白バイにも採用される。 '60年まで製造されて人気を得る。
昭和31年
(1956年)
10月 ・塗装工程合理化の為に、専門会社:目黒塗装工業を設立する。
昭和32年
(1957年)
4月 ・350cc・Y2型「レックス」の販売を開始。
後部フレームを鋼鈑プレス成型で構成した。 Y型の意匠と、リア懸架をスイングアーム仕様に改良したオートバイであった。
・特殊鋳鋼製法「センダイトプロセス」を、Y2型のエンジンシリンダーに採用する。
エンジンの耐久性が向上したので、その後のメグロブランドバイクに採用する。
昭和32年
(1957年)
5月 ・650cc・T2型の販売を開始。
T1型の意匠と、フレームを改良したオートバイであった。
500cc・Z7型と共に、白バイにも採用された。
・125cc・E2型の販売を開始。
E1型の意匠と、フレームを改良したオートバイであった。
昭和32年
(1957年)
10月 ・群馬県北軽井沢においてオートバイの耐久ロードレース(第二回浅間レース)が開催される。
メグロは500ccのカテゴリーにワークスレーサーで参加。1位優勝と2位入賞した。
昭和33年
(1958年)
6月 ・125cc・E3型の販売を開始。
新開発したSOHC仕様のオートバイ。
従来のメグロブランドオートバイから脱却した、斬新なデザインで登場。 しかしながら、メグロのユーザーからは支持が得られず不評であった。
昭和33年
(1958年)
7月 ・250cc・F型の販売を開始。
第二回浅間レースの優勝バイクから新開発したSOHC仕様のオートバイ。
しかしながら、メグロのユーザーからは支持が得られず不評であった。
昭和33年
(1958年)
8月 ・株式を公開して、東京証券取引所に二部上場する。
昭和33年
(1958年)
11月 ・日本製オートバイの宣伝紹介と売り込みを兼ねた、東南アジアへの小型自動車工業会の訪問団に参加。
メグロはZ7型とF型を持ち込み、現地にて好評を得る。
昭和34年
(1959年)
4月 ・325cc・YF型の販売を開始。
250cc・F型のエンジンボアを増大して搭載したオートバイであった。
しかしながら、メグロのユーザーからは支持が得られず不評であった。
昭和34年
(1959年)
9月 ・250cc・S5型「ジュニア」の販売を開始。
S3型のエンジンとF型の意匠を改良したOHV仕様のオートバイであった。
F型に不満があったユーザーに人気となり、4ヶ月間に4889台が製造された。
・325cc・YA型「アーガス」の販売を開始。
325cc・YF型をスクランブラースポーツ仕様に改良したオートバイであった。
昭和35年
(1960年)
1月 ・250cc・S7型「ジュニア」の販売を開始。
S5型の意匠と、リア懸架をスイングアーム仕様に改良したオートバイであった。
同年7月に再改良がされて、6v電装から12v電装セル付き仕様となった。
その後、S3型に次ぐ人気モデルとして'63年までに21020台が製造販売された。
・125cc・CA型「キャデット」の販売を開始。
ヨーロピアンスタイルの新開発OHV仕様のオートバイであった。
その後、メグロブランドの125ccオートバイとして初めて人気モデルとなり'64年まで販売された。
昭和35年
(1960年)
2月 ・日本製オートバイの宣伝紹介と売り込みを兼ねた、中南米への小型自動車工業会の訪問団に参加。
メグロはYA型を持ち込み、現地にて好評を得る。
昭和35年
(1960年)
7月 ・170cc・DA型「レンジャー」の販売を開始。
125cc・CA型のエンジンボアを増大して搭載したオートバイであった。
昭和35年
(1960年)
10月 ・500cc・KH(1K)型「スタミナ」の販売を開始。
Z7型とT2型の仕様を統合した、新開発の2気筒OHVオートバイであった。
大幅に性能が向上したので、白バイの主力となった。
英:BSAのA7にスタイルが類似しているので、欧米では模倣したのではとのイメージがある。
昭和35年
(1960年)
11月11日 ・目黒製作所の経営状況悪化により、取引銀行の指導で川崎航空機工業との業務提携を決定。
昭和36年
(1961年)
2月 ・川崎航空機工業との業務提携に基づき事業の合理化を開始。
これに伴い、労働組合との労働賃金の交渉が決裂して、本社工場と烏山工場がロックアウトを伴うストライキに入る。
「目黒争議事件」として知られ、同年12月まで操業の支障となった。
昭和36年
(1961年)
3月29日 ・目黒製作所創業者、社長の村田延治が死去。
昭和36年
(1961年)
8月 ・川崎航空機工業との業務提携に基づき、メグロブランドのオートバイはカワサキ自動車販売に卸売りとなる。
これに伴い、販売店はカワサキ自動車販売より仕入れとなる。
昭和37年
(1962年)
2月6日 ・横浜に新工場が完成。東京・本社工場を閉鎖して移る。
本社機能は東京に残したが、他の旧工場敷地は東京日産自動車販売に売却された。
昭和37年
(1962年)
3月2日 ・横浜工場より火災が発生、被害(事務所棟全焼)を受ける。
工場建物は延焼を逃れて、生産に支障は無かった。
昭和37年
(1962年)
5月30日 ・前社長・村田延治の死去に伴い、鈴木高治が社長に就任する。
昭和37年
(1962年)
6月 ・エンジン専門製造会社:昭和機械製作所を閉鎖する。
同年9月より烏山工場にてエンジン製造を移管した。
・フレーム専門製造会社:大和製作所を閉鎖する。
同年12月より横浜工場にてフレーム製造を移管した。
昭和37年
(1962年)
11月1日 ・社号「目黒製作所」を「カワサキメグロ製作所」に改称する。
新社長には川崎航空機工業の役員から土崎英利が兼務となった。
翌年2月より株式の半分を川崎航空機工業の保有としてカワサキ傘下に入る。
昭和37年
(1962年)
11月29日 ・前社長・鈴木高治が会長に就任する。
昭和37年
(1962年)
12月 ・250cc・AT型「オートラック」の販売を開始。
S7型仕様とS3型の意匠を組合わせ、リアホイールを小径(10in)に改良した、荷物運搬専用オートバイであった。
・250cc・S−8型「ジュニア」の販売を開始。
S型シリーズ「ジュニア」の最終モデル。
S7型仕様とS3型の意匠を組合わせて改良したオートバイであった。
S3型の再販を期待したユーザーに人気となり、'64年まで製造された。
昭和38年
(1963年)
・東京オリンピックの開催に向けて、警備用白バイとして500cc・KH(1K)型「スタミナ」を量産。
・カワサキメグロ製作所を整理して、川崎航空機工業に吸収統合することを決める。
昭和39年
(1964年)
2月 ・烏山工場を業務終了して閉鎖。
川崎航空機工業の明石工場に業務移管する。
昭和39年
(1964年)
9月 ・250cc・SGT型の販売を開始。
ヨーロピアンスタイルの新開発OHV仕様のオートバイであった。
メグロによる最後のオートバイとして'65年まで販売された。
昭和39年
(1964年)
9月30日 ・横浜工場を業務終了して閉鎖。
川崎航空機工業の明石工場に業務移管する。
・カワサキメグロ製作所を会社整理して、川崎航空機工業に吸収統合する。
この日を以って、企業としてのメグロは終焉となる。
昭和39年
(1964年)
12月 ・250cc・SG型の販売を開始。
SGT型仕様とS−8型の意匠を組合わせて改良したオートバイであった。
メグロブランドによる最後のオートバイとして人気となり、'69年まで販売された。
昭和40年
(1965年)
・500cc・K2型の販売を開始。
KH型をベースに、カワサキで新開発した2気筒OHVオートバイであった。
メグロブランドによる最後のオートバイとして'66年まで販売された。
・650cc・X型を試作。
K2型のボアxストロークを改良して、カワサキで開発した2気筒OHVオートバイであった。
メグロブランドによる最後のオートバイ。
北米市場向けに試作されたが、更に改良がされて、カワサキW1として'66年から販売された。
その後、カワサキの代表的モデルとして人気を得て、'73年に650RS(W3)として製造を終えるまで続いた。
今でも多くのファンを擁している。


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