〜メグロの履歴室〜:メグロ創生期(5)  昭和8年、政府は国内自動車産業振興のため、内務省令により小型自動車の区分改正を実施する。これにより、 4サイクル機関は排気容量750ccまで、2サイクル機関は排気容量500ccまでと拡大され、「目黒製作所」 でもこれに合わせて新たにエンジン開発に取り組む。兵庫モーター製作所の三輪車向けに、モトサコシ社のD50型 機関を参考にボアアップ改良した4サイクルOHV単気筒598ccエンジンを製作、更にこれをロングストローク にした4サイクルOHV単気筒655ccエンジンを作り出した。これらに4サイクルOHV750cc水冷45° V型二気筒エンジンを完成させて区分改正に適応した。  エンジン開発のコツが解れば後は改良・改善すれば良いものが次々できる。問題の工作技術も数をこなせば習熟 できる。トランスミッションの開発と同じようにひとつのエンジン開発により「目黒製作所」はエンジン技術の ノウハウを掴みつつあったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   小型三輪自動車の隆盛によって「目黒製作所」は兵庫モーター製作所に限らず多くのメーカーに変速機・機関・駆動 装置を提供する総合部品メーカーになっていた。村田延治は現状におごらず新たにシャフトドライブによる駆動装置を 三輪車向けに開発する。四輪自動車では既成な装置ではあるが重く大きいため三輪車に載せることが出来ないでいた。  これを主要得意先であるモーター商会が業界初のシャフトドライブ駆動方式による三輪車として製品化、発売した。 機関は芝浦製作所、変速装置とシャフトドライブによる駆動装置は「目黒製作所」の構成であったが、これが思う ように売れない。従来の三輪車と比べ格段に操縦性は向上したが、車重が重くなってしまったのだ。当然エンジン効率 も悪い。荷役運搬が三輪車の主要用途である以上、これは致命的であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   瞬く間にモーター商会の業績は悪化し、遂に倒産してしまったのである。主要得意先を失った「目黒製作所」は再度 危機に窮することになる。モーター商会向けのシャフトドライブ駆動装置は転用がきかず仕掛品の処分に多額の経費が 発生、売掛金も回収不能となった。  結果として他の多くの得意先に助けられるかたちで、この度も窮地から脱することができたが、「目黒製作所」に とって社業躍進の原点となった得意先を失ったのは痛手である。経営者たちもトランスミッション開発以来の馴染み であり、他人事ではなかった。村田たちは少しでも助けになればとモーター商会整理に際して債権者たちと和議を成立 させて、負債の三年間据え置き、10年分割返済を約束して再建に助力はしたが結局駄目であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田はモーター商会から一人の技術者を招き入れた。日野文雄である。日野は小宮山長蔵と共にモーター商会を 興したのだが、彼はその以前から兄が参加するオートレースにエンジニアとして16歳からオートバイに関わった人で、 オートバイには人一倍洞察があった。村田とはトランスミッション開発で親好を深め、また二人ともオートレース好き という共通項もあって村田としても彼を放って置けなかったのである。この日野の移籍が後に「目黒製作所」をオート バイメーカーとして躍進させる原動力となってゆくのであった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」 八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)