〜メグロの履歴室〜:メグロの終幕(1)  昭和38年も暮が押し詰まる頃、川崎航空機工業は単車事業の再構築を図るとしてカワサキメグロ製作所との在り方を 再考し、明石の本社単車事業部との統合が望ましい旨、結論に至る。当初のカワサキブランドへの消極感は自社開発した 2ストロークエンジンのスポーツモデル125cc・B8が当時人気を博し始めたモトクロス・レース出場に拠り活躍し、 ワークスチームも結成されて各地レースで好成績を得てそのチームカラーから「赤いタンクのカワサキ」としてブランド イメージを獲得しつつ在った。一方でメグロブランドの低迷は一向に改善する兆しも無く、これ以上の積極的投資に懐疑 を生じて居たので在る。メグロのブランドは残すとしても同業他社より小所帯の単車事業内に二つの事業所は過剰だった。  同年12月、川崎航空機はカワサキメグロの全株式を取得して完全子会社と為す。そして翌年中を目処に単車事業部と 発展的統合することを表明、12月28日を以て東証二部に在った上場は内整理として廃止された。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和39年1月1日付けでカワサキメグロの横浜本社工場は川崎航空機に管理移管が為された。同時に同設計課も川航 単車事業部の設計部第5設計課として川崎航空機に移され、所在も横浜工場から元の旧目黒本社の塗装工場に在った本社 の事務所内に東京分室として設置された。  同年2月にはカワサキメグロの製品ラインナップを廃止することを決め、川航の製品ラインナップにメグロブランドを 加えるとして提携以降に新規開発した250cc・メグロSGTと開発途上の500cc・メグロK2を揃える準備に入った。 生産拠点はすべて明石の川航本社工場に集約するとして横浜工場および烏山工場は閉鎖するとした。順次各事業所に内示 が為されて早々2月7日には烏山工場、同12日には横浜工場が操業停止と為った。  横浜工場では同日の昼休み後に全従業員が食堂に集められて、工場長の浜田栄司から工場閉鎖が告げられた。全従業員 は即日解雇と為り、翌日には全員に退職金が小切手で支払われたので在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   カワサキメグロ製作所では残務整理の日々と為った。正式に統合と為るまではカワサキ自動車販売に一括納品がされた メグロオートバイが通常に販売され、川航単車事業部に入ったメグロの設計技術陣はメグロK2の開発を急いで居た。 ただ、その陣容にメグロのエンジン設計者は既に無かった。両モデルの基本設計に携わった林政康ほか機関技術者は川航 移管時に依願退職をして居た。恐らくはカワサキに残っても従来のようなエンジン設計ではできないと悟り辞退したので 在ろう。林はその後、本田技研に籍をを移してF1レーシングカーの開発に参加して燃料噴射ポンプを設計。昭和40年 メキシコGPでホンダが初優勝した際に貢献して居る。カワサキに移り残ったのは糠谷省三、小野田邦重、富樫俊雄、他 すべて車体設計を担った面々で在った。彼らは後にカワサキオートバイの殆どにフレーム設計で重要な役割を果たし主要 ポストに連なる立場に至るまで為る。  横浜工場では入れ替わり明石の川航本社工場から出向者が入り、目前に迫って居た東京五輪大会の警備用KPの生産が 再開された。そしてカワサキのラインナップモデルとして販売が決まったSGTの生産も開始されて、不足と為った人員 が退職した元メグロ従業員の委嘱に拠って賄われることに為った。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著         八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」より、              「川崎モーターサイクル用4ストロークエンジン開発史"稲村暁一の軌跡"」各編         ぶんか社「カワサキバイクマガジン」より「カワサキ創成期の証言者」各編         毎日新聞社「The Bike」より「時と人・バイク風土記(蔦森樹・編)」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)