〜メグロの履歴室〜:メグロ創生期(4)  昭和7年、村田延治と鈴木高治はこの年遂に念願のエンジン開発に取り組むこととなる。それは兵庫県にある三輪車 メーカー、兵庫モーター製作所(神戸市)から「今度、「H・M・C号」という三輪車を造るが、よいエンジンが無い。 君たちのところで造ってもらえないか?」という商談であった。村田たちにしてみればこれほどありがたい申し入れは 無かったはずである。それはできることならいち早く自分たちの手でエンジンを造ってみたいと願っていたからである。 これまでは、一からエンジンを造る技術も設備もそして資金も無かった。しかし「目黒製作所」はこの時、これらの 条件を克服できるだけの技術と設備を持つに至り、そこにエンジン開発の依頼が来たのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   早速、村田たちは仕様を検討しモデルとなるエンジンの選択を始める。いくら一からエンジンを造る技術を得たとは 言っても、それはエンジンを造る技術であって開発できる技術ではない。まずはモデルとなるエンジンを自分たちで 試作するという「模倣」が開発のすべてであった。これは「目黒製作所」に限らず、当時エンジンを造っていた多くの メーカーが同様に行っていた方法でもある。  村田たちがモデルに選んだ機関は、スイス・モトサコシ社のMAGエンジンであった。4サイクル単気筒498cc、 OHVガソリン機関のこのモデルは当時非常に進んだ設計であった。その特徴は、エンジンにヘッドカバーが付き密閉 されたこと、そしてロッカーアームがローラーベアリングで支持されていたことである。そのため、機構部品の露出が 少なく、悪路での砂塵付着による故障や飛び石による破損が防がれる他、潤滑用オイルのメンテナンス(それまでは、 露出した機構部品に一々オイルを注して潤滑)がいらずロッカーアームもローラーベアリングにより動きがスムーズで 何よりも焼き付き難くなっていた。村田たちはこのエンジンを手本に試作を開始したのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   年も押し迫った頃になり、村田たちのエンジンは製品として完成する。その間幾度と試作し、試行を重ねた末に ようやく納得の行くエンジンができたのだった。それはモデルのコピーに留まらず依頼の仕様を盛り込んだモデル以上 の性能を持ったエンジンとなった。そしてこのエンジンがやがて「メグロ」の原点となる。  兵庫モーター製作所はこのエンジンを高く評価し、早々に「H・M・C号」への採用を決め三輪車生産にかかった。 「目黒製作所」でもこの決定を受け、同11月には同じ町内に専門のエンジン製作工場として「昭和機械製作所」を 立ち上げ、そして責任者としてかつて「村田鉄工所」で共に「ジャイアント号」の試作で苦労した弟、浅吉に任せる ことにした。このエンジン製作工場が後に「メグロ」の全エンジンを造り出すことに成るのだった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  「目黒製作所」はこの時、従業員数約70名もの規模となり、火災復旧により拡張した工場には整然と工作機械が並び、 これに原動機から天井に張り巡らされた回転シャフトやプーリー、ベルトを介して動力が伝えられていく様は、もはや 町工場ではなかった。村田の「東京で一旗揚げたい」という夢はこの頃ようやく達成したと自身で実感していたのでは ないだろうか。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)