〜メグロの履歴室〜:メグロ終焉期(10)  昭和36年3月、目黒製作所は春闘以来の労働争議に荒れて本社工場も烏山工場も旧労組従業員による不法占拠で 経営陣に対抗し、「目黒争議事件」として世間に知れ渡る状況において生産活動が停滞して居た最中、同月29日に 目黒製作所社長・村田延治は静かに息を引き取った。61年間の人生で在った。  前年の4月より国立伝染病研究所附属病院(現、東京大学医科学研究所附属病院)に肺がんで入院して以来、2度 の大手術を施されたが病状は芳しくならず一進一退で在った。そして11月11日の目黒製作所と川崎航空機工業と の業務提携際には、延治は9月に受けたばかりの2度目の手術の療養過程に在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   会社の代表者で在りながら、既に経営の主体は専務の鈴木高治(当時、社長代行)に移ってしまい、業務提携交渉 も総務部長・角田芳治他、重役に依って粛々と進められて在った。延治は、身内(長女の婿)で目黒取締役でもある 村田敏夫から、只々状況の経過報告を聞くばかりとなって、病室で見せられる書類に目を通しては「肝心な資金支援 のことが入って無いじゃないか!」と怒鳴ってはみても如何様にも出来なかったので在る。  「このままではメグロはカワサキの系列企業に成り下がってしまうではないか・・・」 危惧はして居ても、自身では何ら経営行使が叶わなくなってしまったことに怒りと失意を感じ取って居た。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   そして翌年2月に発した労働争議では在ったが、周囲は延治の病状に配慮してか多くは伝えずに「心配せぬよう」 とだけ念押しをした。だが延治には既にメグロの社内が混乱の極みに至ってしまったことを感じ取って居たようにも 思われる。  「早く体調を戻して復帰したい。そして会社をもう一度建て直してから社業を後人に譲りたい・・・」 若年に上京して以来、「東京で一旗揚げたい」の一念で築いた目黒製作所で在った。 戦前期から戦後のこの時まで幾度かの困難にも自力で越えて来た目黒製作所が今また苦難に直面して居ると云うのに 自身ではどうにもならないので在った。  「葬儀は仏式で執り行ってくれ・・・」 最後の言葉を残し、昭和36年3月29日午後11時15分に逝去した。61歳で在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   葬儀は社葬として同年4月3日に執り行われた。労働争議も前月末には東京地方裁判所の裁定が下り、立入禁止の 仮処分決定に伴う旧労組従業員の不法占拠排除が行使されて、本社工場の敷地内は久方ぶりの平穏を取り戻して居た。 そのような目黒製作所では在ったが、"オートバイ業界にメグロ在り"とされた当時では、殆どの業界関係企業代表者 が葬儀に参列して焼香を手向けたので在った。 先日までの怒号と罵声に満ちた本社工場の周辺も、この日ばかりは閑静となり、延治の人となりを惜しむ人垣が取り 囲んだ。  式後の葬送、霊柩車は近所に在る桐ヶ谷の火葬場へと向うが、同乗する村田こまが「工場正門にも廻って欲しい」 と、延治の最後のわがままと云い添えた。 平静を取り戻した工場内では、保留となって居た完成車を出荷する作業の最中で在った。  「最後によく見ておいて下さいね・・・」 妻のこまが語り掛けるなか、桜が咲く街路を火葬場へと向ったので在った。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「カワサキ“モーターサイクルズストーリー”」小関和夫・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著         毎日新聞社「The Bike」より「時と人・バイク風土記(蔦森樹・編)」         モーターサイクル出版社「月刊モーターサイクリスト・1964 9月号」より、                    「この道に賭けた人々“メグロ号を創り上げた村田延治”後編」     より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)