〜メグロの履歴室〜:メグロ終焉期(6)  昭和31年頃、竃レ黒製作所社長・村田延治は相変わらず忙しい日々で在った。 立場上、当然ながら会社の代表として対外的な役割を果す中で、商品であるメグロオートバイを販売して頂く代理店 の組織「全国メグロ会」の定期総会を九州・別府で開催して、参加者の日頃を労うことも兼ねての慰安旅行で在った。 参加者は皆お揃いの赤いジャケットを誂えて別府の町をオープンカーでパレードしながら観光して廻ると云うメグロ の宣伝をも兼ねたアイディアでも在った。 この後、阿蘇から熊本へと慰安旅行を続けて精力的に動いた村田社長で在ったが、帰京して体調を崩す。 とは云え軽い風邪を引いた程度の症状で、本人も少々無理な日程で疲れたところに深酒が過ぎたくらいに考えて居た 様子では在ったが、既に病状は進みつつ在ったのかもしれない・・・  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和35年4月、村田延治は国立伝染病研究所附属病院(現、東京大学医科学研究所附属病院)に入院する。病状 が思わしくなく、肺がんと診断されたので在った。ここに至るまでの心身的な重圧は、当時のメグロの業績を観れば 如何許りで在ったか。しかし実際にはもっと根深いジレンマを感じて居たのかもしれなかった。  目黒製作所の創業当時、村田延治と鈴木高治の合名会社としてスタートして以来、村田が代表社長として外務を受 持ち、数字に強く技術面にも明るい鈴木が内務を取り仕切る体制が継続されて来て居た。このような関係で思い起さ れるのが本田技研工業の本田宗一郎と藤沢武夫であろう。この両名も本田が代表社長として、藤沢が常務から副社長 へと"女房役"に徹した体制で躍進するのだがメグロの場合とは違う点が在った。本田にはカリスマ的な要素が備わり 経営者としてよりワンマン技術者で在った。それでは経営が成り立たない部分を藤沢が一手に引き受けたので在る。  メグロの村田も本田と似た性分でレース好きが嵩じてこの業界に身を置いたところも同じで在った。だが村田には 経営者としての経験は早くから体得して居たものの、何か強引にでも会社を動かそうとする意志に弱い面が観られる。 それは村田の温情的な性格が、反って経営者としては弱いものにしてしまったのかもしれない。ホンダの藤沢と似た 性分に思われる鈴木の存在が徐々に強くなって来るので在る。  村田の温情な性格は、経営者として決断しなければならない場面に於いても"事勿れ"に判断して優柔不断な対応を してしまう。面倒な事案を鈴木に対応を一任することが常態化することで、実態としての経営は殆どが鈴木の意志に よって決済されるので在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロの業績が日増しに伸びた創業三十周年を迎える頃から二人の関係が次第に食違いをみせるようになる。それ まで数々の難題には一致協力して解決を諮るのが常では在ったが、メグロ社内に鈴木の親族が入り重職に就くように なると、重要な案件で在っても村田の意見が通らない場面が出てくる。当初は村田の親族も経営に参加して居り実弟 が子会社の責任者を務めるなど、鈴木とは対等な立場に在った。しかし村田の家には女児しか無く子息には恵まれな かった。一方の鈴木には3人の子息が居り、やがて長男がエンジン製造の重要子会社で在る昭和機械製作所の代表に 就き、次男で在る滋治が技術部長に納まると、もはや村田にはメグロ社内で意見できる事案は限られてしまったので 在る。  メグロの業績悪化の要因が表向きには時流に合わない商品を挙げることが常では在るが、潜在的要因には鈴木一族 に経営判断を半ば一任した村田にもその一端が在ったとも云える。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   外面的にはメグロ代表者としての立場で存在感を示す村田社長では在ったが、その仕事ぶりは業界行事への参列と 販売代理店への慰労巡回訪問、そして大好きなオートレースへの視察を兼ねた観戦で在った。メグロに乗る選手が勝 てば戦勝祝いだとビールを余計に1本飲み、レースで負ければ"もっと立派なレーシングマシンを用意しなければ"と 独り言を溢しつつビールを飲んだ。  だがメグロ社内での存在は弱まる一方で、現場を廻って従業員に話し掛けては社内の内情を知り役員会の席上では 報告に上がってこない状況に胸を痛める日々で在った。しかしそうした現場の意見や不満を解消する立場には、村田 は既に無かった。"このままではメグロはダメになる"そう思う気持ちと、状況に不安を訴える販売代理店や従業員に 対して「何とかしたいので暫く待ってほしい・・・」そう応えるのが精一杯であった。  その中でレース部門の存在は唯一慰みで在ったことに間違いなく、何れ浅間火山レースが再開されることを心待ち にして居たのではないだろうか。そのレース部門は村田の入院後、専務・鈴木高治以下の経営陣に拠って廃止が決定 したので在った。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「カワサキ“モーターサイクルズストーリー”」小関和夫・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著         モーターサイクル出版社「月刊モーターサイクリスト・1964 9月号」より、                    「この道に賭けた人々“メグロ号を創り上げた村田延治”後編」     より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)