〜メグロの履歴室〜:メグロ終焉期(5)  昭和35年11月11日、竃レ黒製作所は川崎航空機工業鰍ニの業務提携を交渉の上で決定した。そして同14日 に東京にて、18日に大阪にて其々で報道関係先に発表された。業務提携調印式は同17日、東京の川崎航空機支店 に於いて、川航側は手塚敏雄・取締役社長他3名、目黒側は鈴木高治・取締役専務他3名の出席を以って執行われた。  そして引き続き、同30日には第40回定期株主総会を開き、業務提携の決定要綱に基づき川崎航空機より出向の 取締役3名増員を行い、次の通り選任されている。   取締役 小川卓三  (新任)    同  小栗正一  (新任)    同  渡部茂三郎 (新任) また株主総会終了後に取締役会を開き、常務取締役の改選を決議して居る。   常務取締役 鈴木武雄  (退任)     同   小川卓三  (新任)  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   これを受けて販売代理店組織「全国メグロ会」においては12月4日に臨時の総会を兵庫県明石市にて開催、メグロ 経営陣より業務提携の決定報告と主旨説明が行われ、翌5日には同市の川崎航空機・神戸製作所の見学会が催された。 しかしこの席上にて明らかにされた業務提携内容に、多くの関係者は途惑いを隠すことができなかったので在る。  ひとつには会社再建方策の成案に向けての合理化実施、そして販売網を川航側へ移譲する方針で在る旨で在った。 従来はメグロより卸されて居た商流の間に川航が改組設立した販売会社(川崎明発工業梶jが入り、一括卸先として そこからメグロ会加盟代理店へと販売すると云うもので在る。更に示されたのは、メグロ車に加えて川崎航空機の車 も販売することが加盟代理店への条件要求となって在ったことである。  この条件こそが川航側が最も重要視して居た業務提携の成果で在ったことは云うまでも無い。メーカーに対し援助 する見返りに販売網を川航側が活用して「カワサキ」ブランドの自社バイクを拡販、バイク事業の立ち上げを軌道に 乗せることが最重要課題で在ったのだから。  しかしこの条件要求は販売店には不安以外の何物でもなかった。得体も知れない「カワサキ」と云うオートバイは 売れるのだろうか、と。メグロのオートバイは自信を持って顧客に勧められるが、聞いたこともない新興ブランドの バイクに対しては不審に感じられたので在る。メグロ経営陣は早々に対応を迫られる状況に陥ってしまうのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   更にメグロ経営陣には難題が在った。 合意した業務提携の内容では在るがその要件には、業績に似合わない膨れ上がった資本の減資、人員の削減、機構の 簡素化、と云った事項が掲げられて居て早急に対応する必要が在ったのである。 まず取り掛かったのは組織の見直しで在る。従来は各工程に分かれて在ったセクションを統合してスリム化を図り、 不採算が顕著な事業の廃止を進めた。その結果として、メグロは企業の顔とも目されて居たレース部門の廃止を決断 したので在る。  メグロの設立当初からオートバイレースとは密接な関係に在ったが、メグロが活躍した浅間火山レースも開催休止 となり、他のバイクメーカーはレース活動の場所を海外に置き始めて居た。しかしメグロは、業績悪化と脆弱な技術 開発力から診てとても海外でのレース活動ができる状況には無かった。しかも国内のオートレースはギャンブル性が 高く一般には印象が悪いもので在った。メグロはオートレース設立より関わり、レーシングマシンの研究から製造・ 提供まで一環して行う唯一のメーカーで在ったが、そのダークな印象から主要なオートバイメーカーは既に撤退して 居り、国内メーカーではメグロと専業のキョクトーのみで在った。また選手も旧態依然な国産レーサーでは勝てない ことから英トライアンフなど外国産エンジンを好む傾向も在り、メグロにとっても"お荷物"事業と化して在った。 だが今まで存続してきたのは他ならぬ社長・村田延治のレース好きが在り、特別視されて居た実態が在った。  結果、レース部門を解体して研究開発は技術部にて市販バイク開発に専念、オートレースへのエンジン製造と供給、 サービス事業からの撤退が決定したので在る。人員は其々に市販バイク事業の各セクションへと異動となったが、 これを良しとせずに依願退職する者も在り、一部の離職有志と出資者が後にニュー・メグロ鰍興して設備を譲受し 事業を引き継いだ。以後、目黒発動機鰍ノ改められてオートレースを支えたが、平成5年10月に使用エンジン統一 が実施されてスズキ・セアが唯一のレース用エンジンとなったことから活動を休止。現在は商標権を残して有権利者 により維持されて在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   レース部門の廃止は然して反対や抵抗もなく決定された。これまでの経緯上、村田社長の異議は当然のように在る と感じられるのだが何故か。そして業務提携調印式に於いて、村田社長の姿は無かった。何故か・・・ 同年4月、村田延治は肺がんに倒れて加療入院をして居たので在った。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「カワサキ“モーターサイクルズストーリー”」小関和夫・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著         モーターサイクル出版社「月刊モーターサイクリスト・1964 9月号」より、                    「この道に賭けた人々“メグロ号を創り上げた村田延治”後編」     より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)