〜メグロの履歴室〜:メグロ終焉期(4)  目黒製作所の営業々績は表向きには不振から回復をしつつ在るように見えて居た。だが財務状況としては依然と して新型OHCエンジン車シリーズでの損失を補えないで居た。いや寧ろ悪化の一途を辿って在るかの様相を呈した。 前年に実施された増資で一時的にはOHCエンジン車の設備投資赤字を少なく見せることはできたが、それは暫しの 処置であり実際には投資分の回収は到底できて居ないまま負債は膨れ上がって居たので在った。これまで何とか自主 更生を果たそうと手立てを講じて来たが、それも限界が見えた。 メグロの窮地を見かねて、遂に取引銀行が動いたので在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   取引銀行より目黒製作所に対し他社との業務提携を持ち掛けて経営安定と財務改善を即すよう求めて来たので在る。 メグロの経営陣は先ず、水面下で旧知の同業で在った東急くろがね工業に業務提携の打診を諮るが、当のくろがね側 も主力の貨物自動車市場で苦戦を強いられ、在京の一大コンツェルンで知られた東急グループの傘下に入り業績建て 直しに掛かったばかりで在った。思惑として東急グループの後ろ楯を得ようとしたのかもしれないが、流石にこれは 請けられる話しでは無かったと感じる。  結局進展が無い中で、在阪系の大和銀行(現りそな銀行)が業務提携先候補の打診を入れて来た。提携先候補企業 は兵庫県明石市に拠点を持つ川崎航空機工業で在った。川崎航空機(川航)は元々神戸を拠点にコンツェルンを成し た旧・川崎重工業が戦後の財閥解体により分社した川崎産業→川崎機械が内燃機関事業を基に二輪車用エンジン外販 から興し、戦前の主力事業だった航空機分野への復業により社名を換えて居た。 当時主要外販先で「メイハツ」ブランドで知られて居た川崎明発工業(東京・葛飾)の2サイクル125ccクラスを 中心とした小型バイクの業績が好調で在ることから、川航経営陣は将来的に二輪車事業は有望に成ると、これを自社 に取り込み自社ブランドとして製造販売して展開するべく方針決定がされて居た。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   川崎明発工業は元々独立系のアセンブリバイクメーカーで、川崎機械製の汎用バイクエンジンを使い組付けバイク を製造販売、「メイハツ」ブランドを立ち上げて在った。「メイハツ」とは"明発"="明石製の発動機"を意とした 名称で、他にも同様に"ダイハツ"="大阪の発動機製造"や、スクーター「シルバーピジョン」のエンジンで知られる "メイキ"も旧三菱重工より解体分離した中日本重工の"名古屋機器製作所"からの呼び名で在る。折からのオートバイ ブームに乗って業績が上がるが、その後のメーカー乱立による過当競争により、昭和29年には川崎との結び付きを 強くして至って居た。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   そこで懸念されたのがこの「メイハツ」ブランドの実力で在る。組立工場の所在した首都圏では知名度が高いもの の全国的ではなく増してや自社ブランド「カワサキ」を立ち上げるには販売力の欠如は決定的で在った。川崎航空機 にとって「カワサキ」オートバイの事業化展開の可否は、当に強力な販売網を築くことの成果に掛かって居た。  オートバイメーカーとしては未知数の「カワサキ」も企業としての「川崎グループ」は造船・車輌・製鉄・汽船と 日本有数の企業集団で在り、当然のことながら財務は揺ぎ無い業績を有して居た。一方、メグロオートバイの知名度 は全国的で在り、メーカーとしての信用も販売力も「メグロ会」と云う強力な販売代理店組織により業績状況に比べ 未だ十分で在った。  オートバイメーカーとしての信用と販売力を得たい「カワサキ」。  強力な財務の後ろ楯が欲しい「メグロ」。 両社が歩み寄るまでに然程の時間も掛からなかったので在る。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「カワサキ“モーターサイクルズストーリー”」小関和夫・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)