〜メグロの履歴室〜:メグロ創生期(3)  昭和5年、「目黒製作所」には追い風となる出来事が重なり、国内有数の自動車部品メーカーとしての地位を確立 しつつあった。特に小型自動車用変速機はバックギヤ付によりほぼ独占となる。が、これに目を付ける業者も多く 現れた。気が付けば同じ機構を持った類似変速機が市場に溢れ、村田延治も黙っているわけにいかなくなった。 これらコピーメーカーに対し特許の有効を盾にやめてくれるよう説得して回り、やがて無断コピー製品は減っていく のだったが、需要を賄うために必要な設備投資が発生し、結局当時の金額で20万円もの大金を借金することになる。 このように良いことばかりではなく不運も襲った。三輪車用変速機の大口納入先であった二葉屋が倒産したのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和4年10月の世界大恐慌の影響は当時の日本に深刻な状況をもたらしていた。特に銀行の破産と外国為替の高騰 により貿易商はまともに影響を受けていたため、第一次大戦下で「成金」としてのし上がった大手貿易商ほど痛手が 大きく、銀行に次いで倒産する企業が多く出た。  輸入二輪車販売業としては大手の二葉屋(株)は500cc三輪車の製造を手掛けていたが、本業の輸入二輪車 米インディアン号の不振により傾いた。この倒産により「目黒製作所」は多額の負債を被り、一時連鎖破産の危機に 陥るのだが、村田延治と鈴木高治のがんばりが功を奏しこの時は持ち直すことができた。が、翌年更なる不運が襲う。  昭和6年6月14日のこと、「目黒製作所」の向かいに開いていた電気部品の製造所から火の手が上がった。 瞬く間に周囲に飛び火した火勢は貧弱な「目黒製作所」の四軒長家を工作機械諸共焼き尽くしてしまったのだ。 この時ばかりは万事休す、ここまでと思われたが、村田たちはついていた。当時としては珍しく相当額の火災保険を 工場に掛けていたのだ。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   とりあえず生産を再開するため近隣の工場を借りて数日後から操業を始めるのだが、この保険金により工場再建は 予想以上に進み、しかも周囲が焼けて更地に成るや隣接の地主に土地の買収を持ちかけ、たちまち60坪もの敷地を 確保したのである。失った工作機械も、ギヤの製造に欠くことのできないフェロースギヤセーパーや、シリンダ加工の 円筒研磨盤、旋盤などを最新のものに入れ替えて、結果的に「災い転じて福」と成ったのである。  村田たちが火災保険を掛けていた理由など知るべくもないが、おそらくは借金などの負債を持ったまま火災にでも遭遇 すれば一生返済は果たせないと見込み、その際は保険で返済するつもりであったのかも知れない。また結果として必要 以上の保険金を得たと見るや一気に工場再建し、その上規模拡張を実行するあたり、村田の経営に対する堅実さと企業家 として長けていたことが伺い知れるのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田たちは更に増え続ける自動三輪車需要に着目し新たにチェン駆動式差動装置(ディファレンシャル)を開発した。 三輪車の多くは二輪車のリアに車軸を付けてチェンを掛けて駆動していたので走行の安定が悪く特にコーナーの通過に 難儀した。これを解消する装置として開発したのだが早速、モーター商会が「MSA号」にこの装置を採用する。  これにより「目黒製作所」は更に仕事を増やし新たに自動車用差動装置の製造も始めるのであった。こうして 「目黒製作所」の企業としての基盤がこの頃できたのである。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)