〜メグロの履歴室〜:メグロ激動期(10)  業績不安定に対するメグロの施策により、昭和34年の配当実績は見掛上には黒字にすることができた。 しかし大幅な増資にも関わらず前年度の配当記録から比べて大きく低下していることは歴然として居た。余裕資金を できるだけ業績安定化に振り向けた表れでも在る。       ・昭和34年度配当記録          3月期決算:第37期・・・・・・・・・年2割5分          (前年同月期:第35期・・・・・・・・・年4割)          9月期決算:第38期・・・・・・・・・年2割5分          (前年同月期:第36期・・・・・・・・・年3割)  販売代理店組織「メグロ会」においては、昭和34年には以下のような異動が生じている。 ・「メグロ会」会員の動向(昭和34年)    (新設)    徳島地区・・・・・・・・・・・・(有)丸宮モータース  徳島地区への一次ディラー設置は昭和31年に旭自動車(株)が解約して以来である。また全国メグロ会々長の改選 も行われ、前任より引き続き山梨地区・甲信メグロ自動車(株)取締役社長・萩原徳憲氏が再任されている。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   会社基盤の安定化も急務と云え、例年開催されるに至った「東京自動車ショー」などの産業界での貿易振興を促進 するべく常設の展示会場が東京・港区晴海に建設され、運営会社:(株)東京国際貿易センターが創立。メグロはその 資本金として内15万円を出資してアピールするので在るが、一方では事態を悪化させないがゆえにネガティブな 出資も行っていた。  出資子会社で在る目黒塗装工業(株)において、既に結成して居た労組が同じ品川地区労に所属する目黒本社工場の 労組と共闘を行い、諸種待遇・賃金・一時金等を同等とするよう要求運動を起したのである。このため目黒塗装工業 のみならず本社工場においても労務管理への支障(サボタージュ等であろうか)をきたし生産計画にも影響を及ぼし かねない事態を危惧。結果、目黒塗装工業は企業経営が行詰ったとして要求を呑む代わり目黒塗装工業を清算、人員 を本社工場に吸収して新たに塗装課を設置して配属としたのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   暗雲は更に内部からも起こりつつ在った。元々、目黒本社工場では労働組合の活動が活発では在ったが上向き業績 では比較的協調路線で在った。が、ここに来ての業績不安定に伴い労組側の要求に応じられない事態となる。つまり は同年3月に労組側要求として出されたベースアップ案が数回の協議会開催によっても妥結できず更に労組側がスト 権発動を下に団体交渉を強行するも遂に3月30日よりストに突入する。 目黒本社工場はスローガンを掲げた赤旗が幟立つ事態に窮するが、数回の団交後に4月2日午後より同3日朝に掛け 徹夜での集団交渉(全組合員同席による会社案(最終協議会時提案)の提示)の結果、漸くに妥結して翌4日より就業 した。目黒本社工場で実際にストまで突入したのは戦後これが最初で在った。 先の目黒塗装工業での騒動もこれに起因するもので在ろうが、その後これをきっかけに社内での軋轢が徐々に充満し て後年の大騒動へとつながってしまうので在る。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)