〜メグロの履歴室〜:メグロ激動期(9)  昭和34年は、今までメグロが経験したこともない程、市場の変化に翻弄された一年でも在った。国内での販売は 既に飽和状態に達し、弱小バイクメーカーの9割はほぼ淘汰されて残ったメーカー間で高性能な小型バイクの投入で 凌ぎを削って居る中、メグロは辛うじて信頼性の高い大型バイクを製造販売できる唯一のメーカーとして(この時点 では偶然にも、では在るが)残ることができて居た。  特に販売面では期待のOHCエンジン車シリーズが全くの不発に至り、これを補うべく緊急に用意した旧来仕様の OHV250cc・S5が4889台と売り切りのS3が貢献した結果、250cc車のみで1万台を大きく越える実績 を得ることができた。       ・昭和34年々間生産台数記録          650cc:T2型・・・・・・・・・・・95台(0.63%)          500cc:Z7型・・・・・・・・・・896台(5.93%)          325cc:FY型・・・・・・・・・・・18台(0.12%)          325cc:YA型・・・・・・・・・・250台(1.65%)          250cc:S3・S5型・・・・・11518台(76.11%)          250cc:F型・・・・・・・・・・・710台(4.7%)          125cc:E3型・・・・・・・・・1642台(10.86%)          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    生産台数合計・・・・・・・・・・・15122台  この数字は目黒製作所創業以来の最大生産台数を記録すると同時に、結果として以後この数字を上回ることはでき なかった。メグロはOHV250cc車を売ることで成り立つ稀有なメーカーと診ることができるとともに、それ以外 実績につながる製品が無くなってしまって居ることが良く判る。 メグロにとって必要な改革は250cc車のてこ入れではなく、これに並ぶ収益の柱を増やすことで在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   次なる収益の柱として期待を掛けて居たのは、一つには125cc以下クラスの売れる小型車開発で在る。   ・OHV単気筒125cc・CAキャデット   ・2st仕様単気筒50cc・M1型(MA)アミカ 一方では市場飽和の国内から未だ尾に付かない海外市場への進出で在る。漸くに東南アジア方面では実績が伴う兆し が見えては来たが、本格的に狙う先は欧米で在った。既にホンダやヤマハ、スズキ、トーハツと云った小型車主力の バイクメーカーが進出を具体化し始め、ホンダは「TTレース出場宣言」の目標を漸く同年6月に果たし6位入賞、 メーカーチーム賞を獲得して知名度をいやがうえにも高め、高好評のスーパーカブを引っ提げ満を持してアメリカへ 進出を開始。ヤマハも同アメリカ・カタリナGPに参戦を果たした。スズキ、トーハツも其々に海外レースへの出場 と海外拠点の開拓を模索して居た中、メグロは'前年8月にアサマで開催された初めてのアマチュアモーターレース 「第1回全日本クラブマンレース」に参戦するもマシントラブルでリタイアし実績が残せず、続き8月22〜24日 に開催された(事実上最後の)第3回浅間火山レースにはワークス参戦するが不本意な結果に終わって居た。海外へ のアピールも国内レースでの結果では十分ではなく、まして海外での宣伝を兼ねての国際レース参戦など極めて困難 で在った。他社の積極的な動きに在って、メグロの立位置は極めて中途半端な状況では在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   そのような頃のエピソードである。 「第1回全日本クラブマンレース」のセニアクラスで優勝、国際オープンクラスで2位と成り一躍名が知れることと なった元アマチュアレーサー:本田和夫氏の証言から。本田氏は目黒製作所本社にも近い目黒で資産家の家に生まれ、 恵まれた環境から少年時代より外国製のバイクやクルマに接してきたことで、当時では困難で在った外国製の高性能 オートバイを操る稀代なアマチュアレーサーで在った。 そのクラブマンレース後の優勝記念パーティーの席上、米フロリダ州のデイトナで毎年春に開かれるレースイベント、 「デイトナスピードウィーク」に参戦すると云う計画を発表する。それも完全に自費・独力での参戦であると。 この無鉄砲とも思えるプランは当時の富裕層の実情(未だ戦前期のような資産の偏りが残って居た)が成し得たとも 云え、現在の資産平準化(当時の企業社長等は大実業家であり、現在の事業主に限られた立場とは異なる)の中では、 一個人で実行に移すのは極めて困難で在ろう。  そのデイトナGP参戦に関して、本田氏は結果的に幾つかのトラブルに因り異例な国際レースへの個人参戦と云う 事実以外に特筆すべき戦績を残すことができなかった。が、しかし本田氏が当時の日本人誰もが自由では無い渡米を したことを、目黒製作所社長・村田延治は一つの足掛かりにしたいと考えたので在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田社長と本田氏とのつながりは父・四郎氏との交友関係で在ったと証言して居る。居宅が近所で在った程度しか 具体的きっかけは判らないが、ただ本田氏の幼少期から既に親しい付き合いが在ったと云う。 村田はその渡米中の本田氏に向けて、父・四郎氏を介してオープンリールの録音テープに或るメッセージを吹き込み 送ったので在る。 本田氏の証言によると「私にエージェント権を与えるのでアメリカでメグロのバイクを売り込んでくれと、メグロの 村田延治さんから言われたのです。当時のメグロは或るユダヤ人の会社にエージェントをさせる予定だったそうなの ですが、その会社が全く動こうとしない。だから私に売ってくれないか、と云うことを長いテープに録音して送って 来たのです。なんとかやってくださいと・・・」 テープのその声は、温厚で実直そうな如何にも村田の人柄が伝わるもので、今でもその音源が本田氏の下に残る由。 「質問の中身はバイクの北米市場、輸出を始めたホンダやヤマハの動向、メグロ車の市場での可能性等々で村田さん が子供の様な年齢の私に対して低姿勢で質問して居るのです。極めて初歩的内容で・・・日本のメーカーは海外事情 について全く知らなかった、手探りですね。メグロと云えば当時の日本では一大バイクメーカーです。その社長さん が私のような若造に頭を下げて聞いているんですから。まともに英語がしゃべれる人間も少なく人材が居なかったん ですね・・・」 結局、この依頼は実現に結び付かず、メグロの北米進出は大きく遅れをとる結果となったのだが、本田氏がその帰国 に際し、当時としては不可能とも云えた個人による外国製バイクの持ち込みが立場的に認められ数台のバイクが日本 に持ち込まれた、その中の一台にイタリアのMVアグスタによる125ccワークスレーサーが在った。 門外不出と云われて居たアグスタ社のワークスレーサーが、しかも日本に来たと知った村田はこれを渇望して譲り受 ける。その目的は判然としないが、その後の製品開発(高性能小型車開発の参照とデザインセンスの師範)に用いる つもりで在ったのだろうか。 恐らく当時唯一、国内に存在して居たで在ろうアグスタ社のワークスレーサーのその後は行方不明で在る。現存して 居れば現在でも大変貴重な遺産で在るがメグロ技術部に保管されて在ったと考えるに後年、移転直後の横浜新工場内 で発生した火災事故により、同じく保管されて在ったメグロ第1号車と共に焼失してしまったのであろうか・・・  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   同年の他営業実績としては、警察庁採用の白バイ納入状況は次の通りで在った。(※地方警察本部裁量台数省く)       ・昭和34年度白バイ採用台数記録          650cc:T2P型・・・・・・・・・・70台          500cc:Z7P型・・・・・・・・・173台          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    採用台数合計・・・・・・・・・・・・・243台 前年比では1.5倍の増加と成って居り、一段と官需依存の体質で在ることがこの数字からも窺われる。  対して海外輸出に関しては次の通りで在った。       ・昭和34年度輸出台数記録         仕向先:琉球(仲介商社:竃沢組)          250cc:S3型・・・・・・・・・・・31台          500cc:Z7型・・・・・・・・・・・・2台          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    輸出台数合計・・・・・・・・・・・・・・33台 当時未だ外地で在った琉球(現、沖縄県)向けに戦後初めての輸出がされた。これを足掛かりにメグロの輸出は徐々 にでは在るが軌道に乗り始める。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」平成15年9月号〜平成16年2月号記事より                                   「戦後バイク史の証人たち・本田和夫」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)