〜メグロの履歴室〜:メグロ激動期(8)  昭和34年、春。メグロは来るべき高速道路時代の高性能車開発に着手する。本来で在ればメグロが持ち得た最新の 技術、即ちDOHC型式による4ストローク仕様となるべきところでは在ったが、既に市場化モデルとして発売されて その営業的不振が明確となって居たOHCエンジン車シリーズの状況を踏まえ、また開発後には最大のユーザーとなる ことが明らかであった警察庁=次期白バイ用機種向けとして冒険は避けられたので在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   開発の要点は二つ。一つは高速道路時代に対応しうる高性能大型二輪車で在ること。今一つは次期白バイ用機種向け の仕様で在ること。当時のメグロにおける大型二輪車は、OHV単気筒500cc・Z7と、同二気筒650cc・T2が 在り、何れも白バイ用機種として生産されて多くが白バイとして用いられて居た。既に500cc以上の白バイ用モデル が用意できうる国産メーカーがメグロしか無いと云う状況下において、警察庁からは次のような要望が在ったと云う。 ・取り締る対象の自動車、特に小型二輪車の高性能振りは顕著で在り、加速・最高速度の何れにおいても従来の白バイ  車両では対応が難しく成りつつ在る。 ・メグロの主力白バイ用機種・Z7は耐久力では申し分無いが出力の割には重く、最高速度も120km/h程で在る。  一方、最大排気量の対応機種・T2では加速力は在るものの、やはり車重は比べて重く最高速度も130km/hが一杯  な状況で在る。 ・高速道路の開通後において今後に予測されうる諸対応が何れの機種においても難しくなることを想定して次期白バイ  機種の早期開発を希望する旨・・・ ・但し余りにも先進的仕様に走らぬよう、その操縦性は安定した従来の仕様に準じることが望ましい。 しかしながら当時は一般道路でさえ未だ未舗装が殆どな上、その「高速道路」と云うシステムが如何なる状況を生じる モノなのか未だ明確でない(※日本初の高速道路と云われて居る名神高速道路の部分開通:尼崎〜栗東:は昭和38年) 状況下でメグロは単純な構想ながら確実に従来機種を上回る性能を見込める方法で開発を始める。 即ち、Z7とT2の長所を併せる→OHV二気筒500cc化による軽量かつ高出力な大型二輪車をコンセプトに置いた ので在る。 一方ではメグロ側の事情もある。開発部門で在る技術部の多忙は既に記したが、他事案に手一杯な状況下において目的が 明確な次期白バイ用機種の開発はどうしても従来からの基本構成を踏襲せざる得ない安易な開発事案で在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   まずエンジン設計から始まった開発は、機関の軽量化と高性能化を目的に従来機種から無駄を除く作業に取り掛かる。 OHV二気筒はT2が基本仕様と成るものの、メグロ独自の仕様(歩留まりからシリンダは二気筒ながら個別→単気筒 が並列配置した構成)で在ることから、これをモノブロック化して軽量にする。メグロ技術陣にとってこの仕様の採用が 最も難しい選択でも在った。何故ならば既にT2に於いてもその検討は為されて居たが、その歩留まりの悪さに見送られ て在った。しかし鋳鉄一体仕様の二気筒シリンダブロック採用無しには、この主たる目的の達成は為しえなかった。 (だが後年、やはり鋳鉄一体仕様の二気筒シリンダブロックは精度が上がらず経時による変形も見られ、継承機種で在る  カワサキW1系でも同様の問題を抱える事となる。同時進行的に開発途上で在った類似モデルの250cc・AD型では  結果的にこの問題を解消することができなかった様子で未完事案となって居る) オイルポンプはウォームギヤを用いた機構で在ったがスペースを取っていたので平ギヤを用いた機構に換えて、位置も クランクシャフトの下方に移し250cc・S3同様の配置とした。このお蔭で従来はクランクケースに二段のカバーが 付いて在ったのが1段で済ませることができた。またプッシュロッドの配置は従来からの踏襲としたので在る。 結果として出来上がった外観意匠は当時、世界的に観て高性能大型二輪車としてつとに有名で在った英BSA社のA7 と瓜二つなものと成ったので在る。 このことは如何にメグロが英国車の様式を範とした仕様を継承し、英国車と似た進化をして居たかを裏付ける事柄では 在る。英BSA社のA7を参考に観て居た事実から全くの偶然的結果では無かったようだが、それは開発におけるいち 過程に過ぎない。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   KH型とされたこの機関の開発はエンジン設計課の林政康が基本設計を行い、実質的作図作業はメグロのエンジン製作 外注先で在った系列会社・昭和機械製作所の蓮見金吾が図面を引いて居た。  車体は車体設計課の糖谷省三が担当。Z7やT2の様式を採りながら、メインフレームの前後を詰めてやや腰高では あるが操作性能に優れるハンドルポジションを確保。安定した従来の仕様に準じる操縦性に加え結果的にフレームおよび エンジンの軽量化につながり、当時国内最大排気容量車に相応しい車が完成するのであった。 当時の事情を林は、「コピーと云われるのは心外。T2を踏襲する上でBSAは参考に観た」と回顧して居る。また糖谷 も、「フレームの実測などしたことは無かった。確かにヘッド部の溶接方法はBSAを参考にしたが、設計者なら観れば 判ってしまう事」と述べて居る。 つまりA7の中にメグロが従来持ち得て居ない技術は無く、恐らくは観なくても結果は同じで在ったのではないだろうか。 後年に英国車をコピーした云々の悪評はその外観的印象のみを見比べて評価されることが殆どで在るが、開発の過程に おいてはやはり参照した程度の影響でしか無かったので在る。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)