〜メグロの履歴室〜:メグロ激動期(7)  昭和34年のメグロ技術陣は、営業やディーラーからの相次ぐ改良・開発要請に多忙を極めて居た。当時の技術部は、 取締役の鈴木滋治を部長に以下、エンジン設計課・車体設計課・設計管理課・実験課が置かれ居り、昭和30年以来、 エンジン設計課は林政康、大槻雅之 他3名の5名、車体設計課は糖谷省三、富樫俊雄 他1名の3名と云う人員で遣り 繰りされて在った。当時の様子を林政康は「目黒は知名度の割にはこじんまりとした会社で在った」と後に語って居る。 そのような状況で前年より不信が続くOHCエンジン車シリーズの改良対応と、既に販売の終了を決していた250cc・ ジュニアS3を見直す形で販売促進用改良車・S5の開発が急がれて居た。  4月より250cc・F型をベースに改良したOHC単気筒350cc・FYを発売、9月には250cc・ジュニアS3の 改良型としてF型の装備品を流用(フェルタンク・フラッシャー用電装など)したS5をわずか四ヶ月の間に4889台 集中製造して発売。これにより不信OHCエンジン車シリーズの浮揚と従来からのメグロ愛乗家の要望を満たすと考えら れた。だが、S5はそこそこに営業貢献するものの場当たり的な改良車で在ったことから直ぐに翌年の販売に合わせての 新車開発が開始され、FYに至っては外観からも性能からもF型と違いの見いだせない内容から5ヶ月間に僅か18台の 実績と云うほどに全く売れない始末で、こちらも急遽に再改良で見直され11月のモーターショーに合わせてコンセプト を見直し9月に公開されたのが350(325)ccスポーツ車・YAアーガスで在った。YAアーガスは、そこそこには 実績が得られる製品とは成ったが、満を持して発表された期待のOHCエンジン車シリーズの末路はこのモデルひとつ だけと成ったことは、メグロの思惑に反して市場は高性能な新型バイクをメグロに期待して居なかったことを如実に示す 結果で在ったと居えよう。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   技術部の多忙はこれだけではなかった。営業部隊から特に要求の在った250cc以下クラスでの有力製品開発と、既に メグロが独占的市場として居た白バイ向け車種の高性能化開発がスタートしたのだ。1月から3月に掛けOHV単気筒の 125cc・CAキャデットの開発が進められ、4月からは白バイ向け高性能車として500ccクラスのOHV二気筒仕様 で開発開始。6月からはOHVながら二気筒仕様の250cc・AD型の開発を始める。8月にはこれもメグロでは初めて となる2ストローク仕様の単気筒50cc・M1型(MA)アミカの開発も重なることとなる。  特に機関設計は鈴木滋治が役職に在ることから設計業務には一切携らず、新規開発で在ったこれら事案の殆どは林政康 が一人で行って居たと云われる。この年の夏、林は帰宅もせず会社に寝泊りしながらこれら事案開発に没頭したので在る。 この状況が結果として白バイ向け高性能車(→KH型のち500cc・K)の仕様そして評価に大きく影響することと成る ので在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   250cc・AD型はボア×ストロークを54×54のスクエアとしたOHV二気筒仕様とされセルスタータ付ユニット 型エンジンにて企画され試作機関では18馬力を記録したと云われる。しかしユニット重量が62kgにものぼり減量対策 で苦慮することとなった。結果、一度は休止事案とされるが翌年に改めAK型として継続開発事案と成るが、量産レベル での工作上で品質安定が得られないと評価されて未完事案となる。 (この件では類仕様で進められて居た白バイ向け高性能車→KH型のち500cc・Kにおける諸問題とも関連と思われる)                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)