〜メグロの履歴室〜:メグロ激動期(5)  昭和33年度の白バイ採用はメグロにとってはエポックであった。同年、白バイ納入の最大手メーカーで在った陸王 モーターサイクルが一般向け販売の不振により業績悪化が表面化したのである。これを懸念した警察庁は継続的に陸王 号を白バイ採用することは難しいと判断して採用を見送ったのだ。  このため、必要台数を確保できうるメーカーとして目黒製作所は唯一、白バイ納入メーカーの位置付けがされたので ある。以後メグロが整理されて翌40年までの間、メグロ〜カワサキが警察庁による一般配備用白バイを独占受注する 納入メーカーとなった。 ※但し、地方警察本部裁量での白バイ採用では徐々にホンダが進出してメグロ整理の前後時期には一般配備用では不足  する台数の殆どがホンダ305・CP77で在ったと云われる。       ・昭和33年度白バイ採用台数記録          650cc:T2P型・・・・・・・・・・50台          500cc:Z7P型・・・・・・・・・112台          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    採用台数合計・・・・・・・・・・・・・162台  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   一方、飽和状況で在った国内のオートバイ需要を打開するためには海外市場に進出するしかないとの考えは業界でも 主流意見となっていた。早々海外に販路を求めてホンダ、ヤマハ、スズキ、トーハツなど新興有力メーカーは独自に 欧米市場へと進出或いはその準備に掛かっている状況に在った。しかし多くの二輪メーカーは未だ国内市場に頼るしか 無く、その格差はより拡がることが懸念されたのである。  そこで業界全体として海外市場進出への足掛かりを得てもらうことを主眼に置いて、小型自動車工業会の主催による 海外宣伝隊を編成することになった。東南アジア方面への輸出拡大を目論見て国内各メーカー二輪車によるキャラバン 部隊を編成して地域を巡回、日本製バイクを宣伝して廻る趣旨であった。  戦前期より輸出を目論見つつも機会に恵まれて居なかった目黒製作所・村田社長は、新型車の思わぬ不振を挽回する べく海外市場進出への再挑戦を期して、率先して企画を取りまとめて同業他社に参加を促し、全7社によるキャラバン 部隊が結成されたのであった。 メグロは看板製品の500cc・Z7と新型車の250cc・Fを各1台参加させ、11月ベトナムに入国してスタート。 続きカンボジア・ラオス・タイ・マレーシア・シンガポールそしてインドネシアを巡回・宣伝して廻ったのである。  7ヶ国4500kmを走破した旅であった。都市部では各国政府によるレセプションも在りパレードや歓迎パーティー 等が催されたが、経路の多くは熱帯のジャングルや険しい山岳部のゲリラ出没地域と云う過酷な道行きで在った。だが 途中脱落するバイクも無く、日本製品の耐久性能と高品質を現地でアピールしたことから各地での反響は大きなものが 在った。  前後49日にも及ぶ難行であったが翌34年1月12日、一行無事に帰国。確かな手応えに今度こそは成功したと、 確信を持ったメグロは輸出代理店と契約。この成果は確実に現れ、数年内に100台単位での輸出が実現したのである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)