〜メグロの履歴室〜:メグロ創生期(2)  大正15年、合資会社モーター商会が自動二輪車を企画、「MSA号」と名付けられエンジンに英ビリヤース社の 製品を使い、トランスミッションには国産の製品を開発することとした。この国産変速機の開発を依頼されたのが 「目黒製作所」であった。すでに自動車部品の仕事で信用を得つつあった「目黒製作所」だが、変速機の製作は やったことがない。しかも一からのスタートである。  村田延治と鈴木高治は、修理でトランスミッションについての知識は在ったようで、当時輸入されていた変速機の 中から、国際的トップブランドとして有名であった英スターメイアーチャー社の製品を参考に開発することにした。 スター社のトランスミッションは小型で簡単な構造ではあるが故障が少なく丈夫なことで定評があった。  村田たちはこの変速機を研究し、遂に変速二段トランスミッションの試作に成功する。この変速機はすこぶる評判 が良く、操作性に優れ、なにより歯車の欠けによる故障が無いなどスター社の製品に引けを取らない内容であった。  「MSA号」と国産変速機の成功によって「目黒製作所」の名前は注目され“「メグロ」ギヤーボックス”として 自動車業界における国産ブランドを確立することとなる。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和2年、「目黒製作所」は国産変速機メーカーとして本格的に活動を始めた。自動車部品の国産メーカー誕生に 「目黒製作所」の知名度はいやが上にも高まり、その自信は当時の雑誌広告のなかに「製品は正確迅速、修繕は親切 丁寧・自動自転車部分品専門製作之元祖・目黒製作所」と、みてうかがえる。  とはいえコストの面で言えば、まだ輸入品が性能に比べて安くできているため、まだ売れる商品では無かったので ある。村田たちはその後も変速機の改良に苦心し、ついに世界に先駈けてバックギヤ付の三輪車用変速機を開発する。  この頃、国内では三輪車メーカーが多く出現しはじめる。まだ四輪自動車は高価でとても小さな商店などでは 使えなかった。二輪車ではあまり荷物が乗らない。そこで多くの二輪車輸入代理店が輸入二輪車を改造またはフレーム を自転車メーカーなどに造らせて輸入機関と変速機を乗せた三輪車を販売していた。村田は三輪車用変速機に注目した のだった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和5年、「目黒製作所」に転機が訪れる。道路交通法規の改正により、部品製作で得意としていた小型自動車の 無資格運転区分が4サイクルが500cc迄、2サイクルは350cc迄となり需要が増加し出した。その上、三輪車 には後進装置つまりバックギヤが装備義務付けとなったのである。  多くの三輪車は未だ輸入品であったのでバックギヤ付は皆無であった。「メグロ」の変速機はバックギヤ付としては 安くて性能が良く故障が無いことで評価が高い。結果、三輪車メーカーは「メグロ」の変速機にすぐとびついたのがで あった。「MSA号」のモーター商会をはじめ輸入二輪車販売の二葉屋など、多くの三輪車メーカーが「メグロ」の 変速機を採用し始めた。  輸入品では英バーマン社がバックギヤ付を開発するが、既に日本では「目黒製作所」による実用新案が成立しており、 一躍「メグロ」は三輪車用変速機のトップメーカーにのし上がったのであった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)