〜メグロの履歴室〜:メグロ激動期(2)  昭和33年、メグロで初めてOHCエンジンを搭載した市販車125cc・E3が6月に、250cc・Fが7月に相次い で発表された。市場での流行モデルに沿ったスタイルに第2回浅間火山レースでのメグロの活躍と云うタイミングに合せ 目黒製作所は期待を持って投入した新シリーズの登場であった。  だがその目論見は程なくして明確な現実となってことごとく打ち砕かれたのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   当初よりメグロは市場規模の大きい小型バイクでの影響力が乏しく、是が非でも125ccクラスの拡販につなげようと E3を先行して販売した。機関設計はスーパーバイザーに浅間火山レースで活躍したマシンの開発を手掛けた鈴木滋治 設計部長を置き、若手新人技師であった林政康(後にメグロK、MA,CA、SGTなど末期メグロの新型エンジン開発 を手掛ける)が自身による初めての設計担当として完成させた。車体はインダストリアルデザイナーとして著名であった 由良玲吉氏にデザイン委嘱して日本は基より欧州での流行まで見据えた斬新なスタイルとしたのであった。  ところがである。新しいメグロを強調するべくスポーティーな仕様にして、ボア×ストローク・56×50のオーバー スクエアな設定のエンジン特性は完全な高回転高馬力型のまるでレーシングマシーンのようであった。この新型バイクに 市場は全くと云ってよい程に反応しなかったのである。理由は明確であった。当時メグロに対するイメージは実用バイク メーカーでありスポーツバイクとは無縁と観られて居たのだ。実用バイクメーカーが初めて送り出したスポーツバイクに 興味を持ったのは極限られた一部のライダーにすぎず、むしろ大多数は興味すら得なかったのではと思われる。  メグロ愛乗者にとっても高回転高馬力型のエンジン特性では実用には向かないとされて結局、一般の新規ユーザーから もメグロ愛乗者からも敬遠される結果を招くこととなった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   続く250cc・Fも販売早々はまだしも徐々に芳しく無い実績で推移した。鈴木滋治自身が手掛けたOHCエンジンは E3程に特性は極端でなく、実走行速度では低速でもトルクが得られるように一次変速でのギヤレシオが設定されて在る など、容易に従来からのメグロ愛乗者も乗換えが利くよう仕様がなされて在った。車体はE3と同じく由良玲吉氏による デザインを基にツートーンカラーのスポーティーな仕様とされた。しかしそれはスポーツバイク的スタイルでありながら 実用車的特性を持つ中途半端なバイクでも在った。それでも新規ユーザーには乗り易さと珍しさからか芽が出掛かったの ではあるが、メグロ愛乗者には難点が在った。  当時でも既に時代遅れであった英国車の仕様の右チェンジ左ブレーキでの操作方法は、Fでは時流に合せた左チェンジ 右ブレーキに変更されて在ったが従来より右チェンジ左ブレーキに慣れたメグロ愛乗者には逆に扱い辛いものであった。 その為かディーラーに薦められても旧来のS3を買うユーザーが後を絶たずディーラーも次第にFを薦めなくなった。 ディーラーからのS3販売継続要望の声にS3の生産を終了してFの増産を目論んで居た目黒製作所はやむなく急遽S3 とFの部品を基に250cc・ジュニアS5の開発を開始することとしたのである。  更には意匠面でも実用車らしくないと云う声に迎合して早々ツートーンカラーから従来の配色であるクロームメッキに 黒塗りを基調としたデザインに改め少しでもメグロ愛乗者の意に沿うよう配慮がされたのであるがこれが反って折角付き 始めて居た新規ユーザーから反感を買うこととなり、結局Fも一般の新規ユーザーとメグロ愛乗者の双方から敬遠される ようになっていったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   新シリーズの投入に伴うこれらの混乱は、バイク市場での人気モデル車に沿った仕様の新型車でイメージチェンジを 目論見た目黒製作所が、市場に於ける一般的なメグロブランドのイメージ評価が実用車のみに限定されて居たことを読み きれなかったことに起因していると観てよいだろう。  これら新シリーズ登場に際して誂えた斬新なカラーリングと意匠は浅間火山レースでの総合優勝を好機と観てレース用 マシンのOHCエンジンをアピールイメージに強調した結果であったが、市場には「アサマは別物」とした雰囲気が在り メグロが持つブランドイメージを打ち崩すには至らなかった。  E3の機関設計を担当した林は後年「結果として失敗作。低速が使えないメグロと不評になったが、しかし自身では 会心の出来だった」と回顧するように僅かに遅れて高回転高馬力型のレーシングマシン紛いのバイクが市場に現れ始める。 しかしメグロにとってはそれまでに築き上げたブランドイメージとの乖離が余りにも大きすぎた。もしホンダやヤマハで あれば違和感無く受け入れられたと考えられなくもない程に、ブランドイメージとはかくも重要かつ繊細なのである。 結果的にこれらメグロの新シリーズに投資された資本の回収は進まず経営負担として重く圧し掛かったことが目黒製作所 のその後に於ける退潮要因のすべてで在ったと云っても過言ではないであろう。       ・昭和33年々間生産台数記録          650cc:T2型・・・・・・・・・・124台(1.03%)          500cc:Z7型・・・・・・・・・・812台(6.74%)          350cc:Y2型・・・・・・・・・・420台(3.48%)          250cc:S3型・・・・・・・・・8794台(73%)          250cc:F型・・・・・・・・・・・482台(4.01%)          125cc:E3型・・・・・・・・・1415台(11.74%)          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    生産台数合計・・・・・・・・・・・12047台  前年実績に比して一千台余のダウンは350cc以上の大型車が徐々に業績を下げていたことによるが、これを補うべき 250cc・Fの不振による機会損失と云っても過言ではない。125cc・E3は一見好調に観えるが販売実績との乖離が 在り、大半が不良在庫となって居たようである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         山海堂「W1 FILE〜MEGURO'60−KAWASAKI'73」蔦森樹・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)