〜メグロの履歴室〜:第2回浅間火山レース(3)  昭和32年10月19日、群馬県北軽井沢の浅間高原自動車テストコースに於いて、日本最初のサーキットレース が開催される。レースは翌20日にかけて3レースが予定されてメグロはその内、第2レースのライト級(250cc)と、 20日の第3レース・ジュニア級(350cc)とセニア級(500cc)にエントリーしていた。  初日は早朝から清々しい快晴の中、既に一万五千余もの観衆がコースメインスタンド周辺に集まり開会の時間を 待ち侘びている。レース関係者そしてマシンに乗って選手も集まりだす頃には最終整備のエンジンの爆音も響き渡り いやがうえにもレース気分は高揚していた。  午前8時40分、開会を知らせる花火が鳴り響き「君が代」吹奏と日の丸が掲揚されると湧き上がる大観衆の拍手 の中で開会式。第1回全日本オートバイ耐久ロードレースの各優勝チーム代表から優勝トロフィーが返還され、日本 モーターサイクルレース協会・高松宮総裁殿下の祝辞が日本小型自動車工業会・竹崎理事長により代読される。そして 選手代表による宣誓が終わるといよいよレースの始まりである。集まる観衆は更に膨れ上がり第1レースがスタート する10時10分には二万人を越える活況であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  第1レースのウルトラ・ライト級(125cc)は10時10分にスタート。観衆の大歓声の中28台が14周回の完走を 目指す。第1回には参戦したメグロであったが、この第2回では得意とするライト級以上のクラスに注力するために エントリーはしていない。レース前から第1回勝者のヤマハと名誉挽回にかけるホンダの争いと視られたが、期待の 通りの熱戦の末僅かにホンダ勢が及ばず結果ヤマハ勢の連勝となった。  続く第2レースは、メグロ勢が出走する今大会のメインイベントのライト級(250cc)。メグロレーサー・RGに乗る No52・内田米造、No61・室次男、No71・井上保の3台が、スターターの手旗が振り下ろされた午後2時10分、出走を つげる花火と観衆の大歓声に送られて爆音を発してのスタート。本命視されたNo54・ヤマハの野口種晴ら3台が出走 不能のため棄権し波乱のレース展開となる。  第3周でメグロのNo52・内田選手が4位に付けるが4周で6位、6周で7位と重ねるにつれ順位を落とす。出走に 遅れたNo71・井上選手は下位より追っていたがこの6周目でエンスト、棄権となる。続く7周目ヘアピンで内田選手 もエンストを起こし棄権。No61・室次男は後塵を拝していたが無難に周回を重ね9周目で10位から9位に、最終周 もそのままの順位でゴールし完走、面目を保った。  レースは出走25台中完走僅かに10台と云う激戦であった。結果は優勝したヤマハと追ったホンダ勢による独占 となり、このクラスでの優劣が明確になる内容でもあった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  大会二日目の20日も朝から好天に恵まれ、訪れる観衆は前日にも増し両日にかけてのべ六万五千人という想定外 の大イベントとなった。レース観戦がマニアのみならず一般人のレジャーとしても関心が高いことが示された結果で もあった。  メグロチームが上位入賞に期待を掛ける第3レース・ジュニア級(350cc)とセニア級(500cc)の混合戦は、スタート 前まで異様な熱気が会場を包み、コース上まで雪崩れ込む観衆の整理に手間取るなど騒然としていた。メグロ勢は、 ジュニア級にNo8・杉田清蔵が乗るメグロレーサー・RYを1台。第1回でセニア級500ccクラスとして走った ベベルギヤシャフト式のエンジン(RZB)を改造して350ccクラスとしたマシンである。一方、セニア級には No53・関口源一郎、No54・折懸六三、No57・杉田和臣、No59・菊地良二が乗る新鋭のDOHCメグロレーサー・RZが 4台。他にNo56・佐藤勇が乗る、第1回でセニア級500ccクラスとして走ったSOHCメグロレーサー・RZA が1台の、両クラス6台であった。なお杉田清蔵はセニア級の杉田和臣の実兄である。目黒製作所社長・村田延治も 自ら東京より応援に駆けつけてスタートの時を見守っていた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  重量車による第3レースは午前10時20分からジュニア級よりスタート。押掛により順次始動するエンジン音が まるで浅間山の鳴動かと間違うかのように響き渡る中、順次脱兎の如く飛び出していった。続いて3分後にセニア級 がスタート。ジュニア級にも増した轟音がコースに向かって走り去る。ジュニア級8台、セニア級9台の計17台が 16周回の完走を目指す。  ジュニア級出走のNo8・杉田選手は第2周5位で通過も後ろNo7のホンダドリームに抜かれ6位後退。第3周追上げ 4位で通過。一方セニア級は第2周でメグロ勢が早くもトップ集団を形成。No57・杉田選手を先頭に3位No54・折懸 選手、4位No59・菊地選手と続く。RZAのNo56・佐藤選手は懸念されたエンジンのトラブルにより早々エンスト、 第3周で棄権する。  第3周では2位No55のホスクをNo54・折懸選手が抜き2位に浮上、以後最終周までメグロ同士での鍔迫り合を展開 する。No53・関口選手は5位、2周で5位だったNo59・菊地選手は調子を崩し後方に付く。ジュニア級No8・杉田選手 は追い上げ4位で通過するも第4周より6周までは5位を維持、我慢のレースとなる。第7周でNo109のドリームが 抜き6位後退。  第9周、セニア級No53・関口選手にアクシデント。エンストするも再スタートして追うがトップ差2周と後退。同 No59・菊地選手も復調せずトップ差3周。一方1・2位競うNo57・杉田選手とNo54・折懸選手は13周目で折懸選手 が一時トップに。14周でも1位No54・2位No57は変らずもほぼ拮抗、15周に入りNo57・杉田選手が給油するや否 や俄然トップを行くNo54・折懸選手を猛追、遂にトップに返り咲く。見守る大観衆も手に汗握る展開に沸き立つ中、 最終16周をそのまま走り抜きゴールイン。メグロ勢悲願の優勝をワンツーで飾ったのであった。勢いで折懸選手は もう一周を周り漸くフィニッシュに気付くハプニングも。セニア級3位にはNo55のホスクが入るも4位No53・関口・ 5位No59・菊地の両選手が我慢のフィニッシュ。セニア級9台出走中、4台が棄権脱落する中、完走5台の内4台が メグロ勢であったことは耐久レースに於いて意義深いものであった。ジュニア級も最後までホンダドリーム勢優位の 中、No8・杉田選手が6位でフィニッシュ。メグロの耐久性を十分にアピールしたのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  終わってみればセニア級1位となったNo57・杉田和臣選手の16周回レースタイムは1時間33分8秒、平均時速 96.4km/hの記録は全クラスに於いて最速であった。この時点でレーシングマシン・DOHCメグロレーサー・RZ は国産オートバイ最強最速車に輝いたのであった。併せてメグロ・チームはセニア級チーム賞優勝も遂げて、記念の チーム集合写真撮影では大役を努め果たし安堵の笑みを浮かべる各選手にサポートのメカニック達。そして技術責任者 である設計部長・鈴木滋治もほっとした表情であった。そのチームメンバーを称えるかの如く両手を挙げ満面の笑顔で 応えるチーム監督・日野文雄の姿が印象的である。  その夜、チーム宿舎で開かれた祝賀会では村田社長も交えて大いに祝杯を揚げたのだが、そのうちに村田の姿が見え なくなっていた。それに気付き不思議に思った杉田清蔵が隣の部屋を覗いてみると、そこには座して号泣する村田社長 を見たのであった。この部屋には、この日獲得した栄誉を示すトロフィーや楯、カップがまとめて置かれて在ったが、 村田はこれらを自身の廻りに置いて泣いたので在る。 杉田の証言に拠れば、村田はこのアサマで是が非とも勝ちたいとレース仲間でもあった山田輪盛館の清水春雄氏に掛け 合い、第1回のアサマではホスク号に乗り出場して居た杉田兄弟をメグロチームに移籍させていたのだと云う。 結果、優勝と云う目的を達成した村田延治の執念は、真にレースが人生とも観える生き様を感じさせるエピソードでは 在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  レース後の雑誌取材に於いて、杉田和臣選手は「狙っていた優勝を果たし、更には最高スピード賞を得て花が添える ことができた」と、躊躇無い喜びを表すとともに「RZのような大出力車ではこの浅間コースはフルに力を出すこと ができない。是非とも改修(舗装か?)を望みたい」と余裕の発言をしている。一方、監督の日野は同取材に対して、 フレームの強度に重点を置きモリブデン鋼管を使用、熱処理と重量超過に労したと答えている。また、ダートコース となった浅間コースに於いて、スクランブルコース用のトレール、キャスター、緩衝装置を考慮する等の対策は特に 行わずにあったと述べている。このことはメグロが勝つために浅間コース対応のレーシングマシンを用意したのでは なく、あくまで耐久性能を追求したレーシングマシンであったことが伺える。  この結果を基にメグロは日本一のオートバイを造ったメーカーとの自負と耐久性により優れるオートバイを造ると アピールすることで積極的にレース結果を宣伝活動に取り上げて行ったのである。まさにメグロにとって絶頂の極み であった。だが、この結果によりメグロは商品コンセプトを大きく変換するのであるが、そのことがメグロにとって 暗転への引き金となるとは思いも掛けてはいないのであった。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         八重洲出版「月刊モーターサイクリスト」昭和32年12月号記事         八重洲出版「オールド・タイマー」平成18年4月号・平成20年12月号記事より、                              「轍をたどる」各編         遊風社「バイカーズステーション」平成8年12月号記事より、                              「無事、これ名人。黄色の工場レーサー その2」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         三栄書房「月刊モーターファン」昭和32年12月号記事         三栄書房「サーキット燦々」大久保力・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)