〜メグロの履歴室〜:第2回浅間火山レース(1)  昭和30年11月5〜6日に開催された第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間高原レース)の成功は、日本 国内の二輪産業界に大きな飛躍をもたらす契機となった。特に急拵えのロードコースと云うハプニングも、海外では 稀なハードダートであったことから格好の耐久テストの場となったのである。  それから二年が経ち、第1回直後に設立された「浅間高原自動車テスト協会」が主となり予てから建設が進めていた 浅間高原自動車テストコースが漸く完成し、専用コースによる耐久ロードレース開催が可能となった。当初、前年に 開催予定として準備が進められては居たが、適地選定や利権調整、更にはコース建設の本分である自動車性能実験利用 に於いて四輪メーカーとのテストコース利用規約でのせめぎ合いなど支障を越えて漸く念願の第2回開催の目途が着い たのは昭和32年夏であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   完成したテストコースは第1回のロードレースでも一部がコースとなった浅間山麓に拡がる牧場敷地内に建設された 左回りに1周9.351qのクローズドコース。日本に於いてサーキットと呼べる初めて設けられたコースであった。 しかし耐久テストを目的としたコースである為に路面は未舗装。しかも浅間山麓特有の火山礫が散らばり申し訳程度に 砂利で固めてあるだけであったがコース構成は本格的なものであった。  スタート地点は幅20m程のストレート上やや入口付近に設けられ、メインスタンド前を抜けて約1km付近よりコース幅 は10〜8mに狭くなるがそれでも第1回のロードレースのような幅2〜3mなどと云うことはなく途中6箇所のカーブの後に 再びスタート地点へと戻る。中でも約2km付近のヘアピンと約7km付近のベントコーナーは難所であった。コースの監修 は、かの多田建蔵である。多田はこのコーナー群を英マン島T・Tレースのコースから参考にしたとも云われている。 そのコーナーを前半は約1kmにも及ぶ直線で、後半は緩やかなRでつなぎ起伏は少ない。ダートとは云えかなりスピード が出せるコースとなっていた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロはテストコースの完成に先立ち、早々からレーサーマシンの準備に取り掛かっていた。先の浅間高原レースに 於いては万事を尽くし用意したレーサーマシンがことごとく敗退したことも踏まえ、第2回となるレースには従来の メグロレーサーとは違う新機軸を盛り込み、内外の最新技術、特にDOHCによるハイスペックな4スト機関の開発に注力 したのである。  開発に際しメグロが参考としたのは、サンパウロでの国際モトレースに於いて目の当たりにして以来、世界の頂点に 立っていたイタリアの高性能レーサーマシン群であった。レースで世界に繰り出すにはメグロが市販するOHVの仕様では 論外である。レースで勝つために最新のマシン技術を獲とくしようと、目黒製作所社長・村田延治が注視していたのが 国際モトレースで常勝するイタリアのレーサーマシンであった。レースに対し並々成らぬ意欲を持していた村田社長の 指揮により海外のレーサーマシン情報を収集し、日本小型自動車工業会により貸与された参考輸入の伊製バイクを分解 ・組立することで基礎的なレーサーマシンの技術を習得したのである。  その第一陣として浅間高原レースでは500cc用マシンとして二種4台、SOHCによるカムチェーン式と同じくSOHCによる ベベルギヤシャフト式が用意されたのであるが過酷なレースコースの前に耐久性を問われる結果となっていた。そこで 新たなレーサーマシン開発に於いてはダートコースでの耐久性向上と高馬力なエンジン搭載がコンセプトとなる。  取締役でもあった設計部長・鈴木滋治以下技術陣は目黒製作所の総力を挙げてのレーサーマシン開発に取り組むので あった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  レーサーマシン用に用意されたフレームは強靭性優れるモリブデン鋼パイプフレーム。フロントはテレスコピック型、 リアはスイングアーム機構として市販車Z7 スタミナに準じてはいるが、各所に補強板が付けられ耐久性の強化がされ た。特徴ある燃料タンクは製作後に干渉部をハンマーでたたいて整形。ハンドルとの干渉部の凹みには搭乗選手の分かる よう色違いに塗られていた。テールカウルは高速走行を踏まえて車体後方の空気整流による抵抗軽減が効果ありとしての 考慮をした形状とされたが、実際にはダートコースでの跳ね石の巻き上げ防止に効果を発揮することとなる。  エンジンは第1回で開発していたSOHCによるカムチェーン式をベースとして、前回同様の単気筒498cc機関では あったが、前回の反省を基にシリンダヘッドへのカバー設置とDOHC化がされた。新エンジンはシリンダ横にカムチェーン を配置し回転を排気側カムシャフトに伝え、更にそこからシリンダヘッド内で吸気側カムシャフトにチェーンを配置し、 回転を伝える構成とした。この機関では外的要因による支障は避けられるようになったが、シリンダヘッドが大きくなり、 しかもオイルが充満した状態となるため重心が高く重くはなるが、DOHCによる高馬力化は強力な武器となった。  また、このレースでは国産小型自動車産業育成を主眼に開催されると云う目的からビスの一本にまで厳しい国産部品 使用の徹底がなされる。メグロも前回では唯一4位入賞したマシンがキャブレターに一部外国製部品が使用されていた ことが判り、入賞が取消されてしまうと云う苦い経験もあって海外部品を使用していた市販車用キャブレターは流用せず にメグロロゴを付けたオートレース用の内製品(実際の製作元は三国商工であるらしい)とした。  こうして、タイプネームも"RZ"を継承して誕生した新レーサーマシンは、完成した時点に於いて日本最強のレーサー マシンであった。この他に各クラス出場マシンとしてライト級(250cc)には新設計のSOHCカムチェーン式・メグロRGを、 ジュニア級(350cc)には前回のセニア級レーサーマシン"RZB"から改良したSOHCベベルギヤシャフト式・メグロRYを 開発準備してレースに臨むのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   一方、メグロチームで出走してくれるレーサーの人選も進められていた。第1回で参加してくれたメンバーの他、オート レースで活躍する選手の中から有望なレーサーは他社チームとの引き抜き合いもあり、村田社長自らが声を掛けて廻って いた。  或る時、地方からメグロに乗り遙々大崎の本社工場を突然訪ねてきた青年に村田はわざわざと歓待して工場内を観せて 廻り極秘裏に進められていた第2回用レーサーマシンの開発現場にも招き入れて自ら特長や性能を解説したのである。 更には乗ってきたメグロも無償で整備した上、その日の宿まで面倒をみると云う申し出に青年は見ず知らずのユーザーを まるで来賓のように歓待してくれるメグロに驚くと共に感激するのであるが、その実、村田はメグロで長距離を走破して 来た青年の度胸を買って、レーサーとしてメグロチームで出走しないかと誘ったのであった。  こうした人選活動の下、ライト級250ccには室 次男、内田米造、井上 保の三人。ジュニア級350ccには杉田清蔵。 そしてセニア級500ccには杉田和臣、折懸六三、関口源一郎、菊池良二、佐藤 勇の五人と云うメンバーが揃うのである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         八重洲出版「オールド・タイマー」平成18年4月号記事         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         三栄書房「月刊モーターファン」昭和32年12月号記事         三栄書房「サーキット燦々」大久保力・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)