〜メグロの履歴室〜:メグロ絶頂期(9)  昭和32年はまた、社会情勢に変化が現れ始めた頃でもあった。外交では日米関係が占領する側される側であった時代 が終わり冷戦下とは云え同盟関係へと変化、当時の岸首相とアイゼンハワー米大統領による会談が実現して「日米新時代」 などと謳われた。冷戦下の一方であった旧ソ連でも世界初の人工衛星・スプートニク1号の打ち上げに成功し人類が宇宙 を目指す時代の幕開けともなった。  国内では茨城県東海村に原子炉が完成し原子力の平和利用が日本でも始まった。そして前年にようやく東京・大阪間が 全線電化された鉄道では5月に催されたある講演会が新幹線誕生のきっかけとなり、4月には高速自動車国道法が公布 施行されている。  日本は「もはや戦後ではない」の掛け声から「所得倍増」のスローガンの下、高度成長期へのスタートラインに立って いたのである。  そのような時勢の中で目黒製作所の業績も過去最高を維持していた。だが、その商品群は既に時代から取り残されよう としていた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   販売代理店から持ち込まれるユーザー要求に対して、メグロは愚直なまでにこれを満たそうと製品改良を続けていた。 多くのメグロユーザーは「もうこれ以上の改良は必要ない。継続的なアフターサービスができて居ればよい」と、むしろ 変化を望まない声が大勢ではあったが、メグロは品質と信頼を掲げて他社との差別化を試みたのである。  しかし競合するバイクメーカーは変わりつつあった。従来からのライバルであった陸王号やキャブトン号はもはや市場 から退出しつつあり、替わって台頭していたのはホンダ・ヤマハ・スズキ・トーハツ・昌和と云った、小型で高性能な バイクを得意とする新興メーカーに他ならなかったのである。  また好景気に乗って従来は実用バイクにより運送や営業をしていた事業所などがオート三輪に乗り換える動きもあり、 オート三輪メーカーの営業マンがメグロの客先にセールスしていたと云われている。  そこでメグロは全国の販売代理店網を見直しはじめた。業績が上がらない、サービスが不十分、他社と掛け持ちなど、 メグロの代理店として相応しくない店を除外し、直営に近いかたちでの代理店を新規開設するよう進めたのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   販売代理店組織「メグロ会」においては、昭和32年には以下のような異動が生じている。 ・「メグロ会」会員の動向(昭和31年)    (解約)                          (新設)    宮城地区・・・・・・・・・・・・(株)宮城くろがね商会          宮城地区・・・・・・・宮城メグロ販売(株)    福島地区・・・・・・・・・・・・福島くろがね商会            福島地区・・・・・・・福島メグロ販売(株)    兵庫地区・・・・・・・・・・・・(株)ダテモータース           兵庫地区・・・・・・・兵庫メグロ販売(株)    (社名・組織変更)    東京地区・・・・・・・・・・・・(合)福田モーター商会              →(株)福田モーター商会    愛知・岐阜地区・・・・・・・(合)坪内商会              →(株)坪内商会    岡山地区・・・・・・・・・・・・三好モーター商会              →メグロ岡山販売(株)  兵庫メグロ販売(株)の設立に際して目黒製作所は年初に50万円を資本出資している。また九州・山口地区の新光車両 販売(株)が3月に増資を決め、これに対して目黒製作所は実に500万円の資本出資を実施、総出資額を630万円と したのである。  以後メグロは販売代理店の新規開設や組織変更に際して直接資本出資を行い、メグロの販売網を固めたのであった。 今でも「メグロ」の屋号を掲げるカワサキ系バイクディーラーが各地に残るがその多くはこの頃にメグロの専売を始めた 店でもあった。  この年は全国メグロ会々長の改選も行われ前任より引き続き山梨地区・甲信メグロ自動車(株)取締役社長・萩原徳憲氏 が再任されている。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   このようなメグロの販売戦略は功を奏し結果として全国で250cc「ジュニア」を中心に販売実績を伸ばしたのであるが これにはメグロにとって追い風となる状況があった。  都市部では既に道路交通は自動車が中心になりつつあったが、地方に於いてはまだまだ自転車もしくは徒歩での移動が 普通であった。確かにバイクも普及はしていたが各世帯にあるような乗り物ではなく開業医や獣医の巡回診察に使われる 程度である。地方の多くは農地であり山林であったが戦後の農地改革等により農業協同組合法が制定され、農業従事者の 協同組織の発達を促進することによって、農業生産力の増進及び農業従事者の経済的社会的地位の向上が図られるように なった。いわゆる農協活動の広がりをみせたのがこの頃で各地で収穫増を地域全体で取り組むべく農業改良が盛んになり はじめたのである。農協活動では農業改良普及のために改良普及員が置かれ、各農家を巡回し農業改良の技術指導に当た っていたが、未だ徒歩もしくは自転車による巡回が普通であったため機動性は著しく低い状況にあった。  そこで昭和32年迄には農業改良普及の活動に機動性を与えて能率を高めるよう、バイクを各地区に1台あて整備する 4ヵ年計画が施行され結果、地方費で整備された数も併せて千数百台にも上ったのである。これには実用車として評価が 高く少々高価でも耐久性に優れたメグロには補助費が出たこともあり数多く採用されたのは云うまでもない。  更に各地で直営に近いかたちでの代理店を新規開設するよう進めたことも奏し、アフターサービスにも手厚くした結果 が好業績につながったと思われる。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   このようにメグロの業績は、都市部での新興メーカーの高性能バイク人気による影響と伸び悩みを、地方のオートバイ 需要がメグロの得意とした実用車を底上げしたと云えるが、しかしその幸運もこの年までであった。翌33年8月に発売 された一台のモペットが日本の、と云うより世界のオートバイ市場を変革させることになるのである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著         昭和32年度協同農業普及事業年次報告書  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)