〜メグロの履歴室〜:メグロ絶頂期(7)  昭和32年に入る頃、目黒製作所は日本を代表するバイクメーカーとして広く知られる企業のひとつであった。そして この時期がメグロにとって最も盛業であったと、後の状況を顧みて云えるのではないだろうか。表面上は好業績ではある が、その足元には社会情勢の変化が忍び寄り始めていた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロは売れ行きが好調なメグロ250「ジュニア」とメグロ500「スタミナ」に続き、懸案であった125ccと、 350cc、そして650ccのてこ入れとして早々に各車種のモデルチェンジを実施する。 昭和32年4月、メグロ350・Y型「レックス」のモデルチェンジを発表、Y2「レックス」を登場させる。Y2は、 その操作性の優秀なことで先のサンパウロ市開市400年記念国際モトレース用出場マシンの原型となったY型をベース にして、従来のメグロ車に無い画期的構造を盛り込んだ意欲作となった。それはかねてより検討を行ってきた鋼板プレス 部材によるフレームの構造である。新興バイクメーカーの多くが既に小型バイクのフレーム構成の主流として鋼板プレス を採用しており全体またはパイプフレームとの合成の形であった。最たる特長は軽量化と量産効果によるコストダウンで ある。そこで軽量化の要となる部品構成の見直しにより低コスト部品の量産が期待できるプレス部品工程の充実を進めて いたが、昭和30年に目黒板金工業(株)をメグロの本社工場付近に設立して後ようやく商品化のめどがたったのであった。 これに合わせるかのように外装部品も極力鋼板プレス化を進め、量産効果を得るために車種を問わずに部品の共通化も 同時に推し進めたのである。鋼板プレス部材の採用はY2には試行的にフレームにも適用して業績を見た状況で各車種へ の波及を目論み、全体としては部材への多用であった。 だが登場後のY2の業績は思うように伸びなかった。350ccというミドルクラス自体の人気が低くなり、より高性能で 安くスタイルも良くなった小型バイクに市場は移っていたのである。そこで目論見が外れたのが鋼板プレス部材の採用に よる製造工数の削減とコストダウンであった。結果、高額なイニシャルコストはそのまま製品にのし掛かり赤字になって しまい「ジュニア」でさえ月産数千台程度の実績ではプレス部品の多用は難しかった。以降メグロではプレスフレームは 採用されなかったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   同5月にはメグロ125のモデルチェンジを発表、E2「レジナ」を登場させる。エンジンとフレーム構成はほとんど E「レジナ」から変えずに外装部品の意匠変更とされた。その125cc「レジナ」に課せられていたのは小型バイクでの 市場確保であった。国内のオートバイに占める125cc以下のシェアは4割にも達する勢いであった。その中でメグロの 存在を示すことができないとなれば更なるメグロの隆盛は見込めないことは明白である。そこでメグロはコンセプトに メグロの上級モデルに手が届かないメグロユーザー予備群をターゲットに置いて、「レジナ」でメグロユーザーになって もらうことを目的としたのである。そのためには何よりコストダウンによる価格低減が不可欠であった。そこでY2同様 に鋼板プレス部材の採用による低コスト部品化を主眼としたのであった。  だが発売後の業績は必ずしも好調とは云えなかったのである。メグロが想定したメグロユーザー予備群がそもそも限ら れた市場であったのだ。メグロのオートバイを希望するのは理由が明確でほとんどが商用目的であった。だがオートバイ そのものを希望する理由は既に乗って走る事、つまりスポーツ車を望む層が多くを占める時勢に変化していたのである。 商用目的でオートバイを希望するメグロユーザー予備群は125cc「レジナ」ではなく、実は250ccの「ジュニア」を 買っていたのである。また結果的にプレス部品の金型費など設備投資に掛かった初期イニシャルコストが圧縮できず価格 はE「レジナ」から据え置くのでいっぱいの状況であった。目黒製作所社長・村田延治ら経営陣が最も期待した125cc クラスでの業績改善は思うほどに伸びてゆくことはなかった。ここにもメグロの思惑と市場との乖離が見え始めるように なるのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   同じく5月にモデルチェンジがされたメグロ最上級モデル650cc「セニア」はやや別の方向から改良がが図られる事 となる。T1「セニア」は登場当初からメグロは基より国産バイクの最高級車とされ乗用車が買えるような価格では商品 としての実体はほとんど無いに等しいバイクであった。 そこでメグロにとって看板であった「セニア」に課せられていた役割を外して(既にメグロ500「スタミナ」と云う 看板が在るとの認識か?)業績が見込める650ccクラスへの転換を目指したのである。余りにも過剰品質と観られた フレーム構成を白紙として、極力メグロの主力商品であるメグロ500・Z7「スタミナ」との共通化を図り、同時に 車重の軽量化も施策とする内容であった。また外装もZ7と共通または類似に簡素化して"特別な"バイクから"普通の" バイクへとイメージの転換が成されている。 こうして登場したT2「セニア」はT1のような豪華さは薄らいだもののスマートに引き締まった(ただ余りにもZ7に 似てしまったのだが)スタイルとなったのである。そしてこの事は今ひとつのT2に対する位置付けを示すのでもあった。 T2の需要を官需、それも白バイとしての色を濃くして登場させたのであった。メグロとしては最大排気量クラスを維持 するには一定の需要が見込める安定的顧客層を欲してZ6〜7の採用により良好な取引先にあった警察庁、すなわち白バイ 向けとしてT1を改良して売り込む計画を立てたのである。そして、生産初ロット分より4台が警察庁へサンプルとして 出荷されて好評価を得る。翌年に一方の白バイ供給元メーカーであった陸王モーターサイクルが倒産するなりその不足分 を埋め合わせるかのようにメグロだけが白バイ購買先として33年からはZ7Pに並びT2Pが大幅に採用されて50台、 34年には70台ものT2Pが生産されている。 この事実においてメグロの目論見は成功したと云えるのだが、一方の目論見であった軽量化においては外装の簡素化にも かかわらず反って重くなってしまう。この現象はT2に限らず同じにモデルチェンジを実施したY2、E2でも同様で あった。おそらくは部材の鋼板プレス化と共通化をしたことで従来活用してきた経験による設計から計算による設計手法 へと変わり、さらにはメグロの社風とも観れる過剰な品質要求からか鋼板厚みが他社基準より厚いなどが要因と思える。 ただ今までは戦前期からの見よう見まねから得た経験の積み重ねの上で成されていた技術開発が、ようやく論理と計算に より導かれる技術開発へと改められて開花したのであった。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)