〜メグロの履歴室〜:メグロ絶頂期(5)  昭和31年、この年メグロは日本のオートバイ史に残る名車を誕生させる。250cc・S3「ジュニア」と500cc・Z7「スタミナ」 である。S3「ジュニア」は好評であった250ccモデルS2の改良モデルとして3月から発売。ヘッドライトケースなど上級クラス並み の意匠は簡素化されたが、前後輪のハブはアルミ合金による全巾ドラムとなり制動性能を向上させている。またドライブチェーンには 密閉ケースが付き、チェーンの耐久性向上も図られていた。  一方、500cc・Z7は4月から発売。戦後初めて警察庁の白バイとして採用された前モデルZ6の改良モデルであった。それはZ6 の白バイに対して警察庁が要望した改善点(主には乗り心地に関して)が盛り込まれての改良であるが最も変化したのが後輪懸架方式 へのスイングアーム採用である。メグロでは既に650cc・T1「セニア」で実績があったがZ7への適用は500ccクラスを載貨目的 の実用車から乗用車へと移行させる意図があったと云える。  この年はメグロにとっては常にライバル視されていた「キャブトン」ブランドの鰍ンづほ自動車製造が突然の倒産を起こし、他方大型 バイクの雄「陸王」ブランドの陸王モータースも会社更生の状況であった。500cc以上の大型バイクによる載貨目的の運搬 用途は、貨物量の増大と低価格となったオート三輪貨物車の普及によって役割を終えつつあったのである。もはや大型バイクは乗用車 として残れるか否かであった。  幸いにしてメグロは数少なくなった大型バイクユーザーの信用を多大に得て市場から消えつつあった大型バイクメーカーのユーザー の受け皿となってはいたが、載貨目的に使っていたユーザーは次第にオート三輪貨物車へと移っていった。メグロが危機感を持ち乗用 としての大型バイクと位置づけを図ったとも云える。白バイという乗用用途での実績が得られることもありZ7の販売は好調な滑り出し ではあった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロは更に、乗用の大型バイクとしてZ7をより大衆に印象付ける結果となるキャンペーンを企画する。発売開始間もない4月20日 〜29日に開催された第3回全日本自動車ショウにおいて展示ブースを設けた目黒製作所は、新車Z7を大々的にアピールすると同時に、 今まで特に愛称を付けていなかった500ccクラスのモデルにもニックネームをという趣旨から、この機会に一般からの応募を募り、 新車のPRも兼ねて命名キャンペーンを実施したのである。  この企画は反響を呼び、特に1等賞品としてZ7を進呈する内容には、自動車ショウの会場でZ7に羨望の眼差しを向けていた人々には夢 のような企画であった。全国はもとより海外も含め191、906通の応募により、「スタミナ」の採用を決定。同案応募者からの抽選 によって、東京・葛飾に在住の富永氏に1等賞品としてZ7が贈られたのであった。 「スタミナ」と云う意味合いが、当時の高度成長初期という国内の時流にマッチしていたこともあり、以降、Z7はメグロ「スタミナ」 の名称で呼ばれ、誰もが知るオートバイとなっていったのである。  これをきっかけに、実に良いタイミングでメグロは乗用の大型バイクメーカーとして大衆に認知されたのであるが、このことがやがて 目黒製作所の不振要因の一因になるのであった。国内のバイク市場は既に小型スポーツ車が主流となって大型バイクの市場は衰退の一途 にあり、Z7・メグロ「スタミナ」の成功も、結局は市場から退出してゆく他の大型バイクメーカーユーザーの(特に白バイ用途での) 受け皿であった。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)