〜メグロの履歴室〜:メグロ創生期(1)  大正13年8月、村田延治と鈴木高治の合名による「目黒製作所」がスタートした。間口3.6m、奥行7.2m、 坪にしてたった7.7坪の町工場に「村田鉄工所」から移った数人を入れても10名程度という、どちらかといえば 自動車修理工場といったもの。経営目的は、自動車及び自動二輪車(いずれも外車対象)の部分品製造・販売とした。  とは言え、自分たちで出来る工作は何でもした。たとえば小型船舶の機関や動力機の部品など。名前も知られて いない町工場にそう直ぐに仕事が入る訳も無く、途端に資金繰りに窮すことになる。「村田鉄工所」の時は実質的 経営者の勝伯爵が最低限の資金を保証していたようなものであったが、今や独立経営故に資金の保証も無く、仕事が 無くては潰れるしかない。借入金の返済期日は直ぐにやって来た。しかし約束して借りた金の返済を守らなくては、 折角独立して得た「目黒製作所」は終わりである。早朝から親類を頼って資金を工面し、地方に出資者が出れば夜汽車 で駆けつけ、得た資金をその足で別の出資元へ返済するという自転車操業が続いた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   創業から数年、苦しいやりくりの中でも毎日根気よく仕事の注文をもらって歩く内、本来の目的としていた自動車 部品の仕事も少しずつではあるが出るようになる。丁度、時代は大正から昭和に移ってゆく頃で米フォード社が乗用車 の大量生産に成功したことにより、日本でも巷で自動車や二輪車が当たり前に見掛けられるようになった、そんな頃 でもあった。しかしながら、自動車や二輪車の国産化は遅々として進まず、試作程度の国産車は発売もされたものの、 その性能は遙かに劣り、コストはとても外車に釣り合う事が出来ないでいた。  この事がやがて「目黒製作所」に追い風となる。走っている車の大半が外国製なので、何かの事で修理に部品が必要 となると、車の輸入代理店に注文となる。運良く在庫が在れば良いがいつでも在るとは限らない。下手をすれば何ヶ月 も待たされるのであった。このような状況で、外車の部品を模倣して修理用に販売する店が出て来ることは自然な成り 行きである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   そんな外車修理用国産部品の販売をしていた店のなかに丸石商会があった。丸石はかねてから英トライアンフ社の 二輪車を販売する輸入代理店であった。修理用部品の必要性から国産部品を手がけるが、当時欧米の技術水準に達する 国産部品は簡単には出来ない。修理の依頼元などの伝から出てきた名前が「目黒製作所」であった。  丸石では自社で修理用エンジンの国産化を進めていたが、この内クランクロッドの仕事を「目黒製作所」に下請け させることにした。丸石は「村田鉄工所」時代の実績を買っていたのか、それとも「目黒製作所」として積み上げた 製品の信頼性に着目したのか、この重要な仕事を定期的に出した。この関係はその後昭和8年頃まで続いたという。  このおかげで、ようやく「目黒製作所」も安定した経営が出来るようになり、次第に規模も拡大していった。 余裕の出てきた資金で新しい高性能な工作機械が導入出来るようになると、その製品評価は日増しに高くなっていく。 そこで村田たちは、思い切ってトランスミッションの開発を試みようと考えたのだった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)