〜メグロの履歴室〜:メグロ絶頂期(3)  昭和29年2月に開催されたサンパウロ市開市400年記念国際モトレースへの日本チーム出場参加は国内二輪車 業界に多大な影響をおよぼしていた。中でも参加メーカーとなった目黒製作所と本田技研は海外メーカーとの性能格差 に驚愕すると共に、国産二輪車の技術発展には国際モトレースレベルの耐久競技開催とそのためのコース設備の設置が 欠かせないとの認識を持つに至っていた。特にホンダは国際モトレース参加メンバーの帰国を待っていたかのごとく すぐさま「TTレース出場宣言」を発表し企業としての姿勢を明らかにしていた。  しかし一企業がそのために動き出したとして、とてもではないがいきなり国際モトレースのようなレースの開催など 出来ないし、ましてコース設備の設置など不可能である。「TTレース出場宣言」は出して見たものの実際に活動できた のは海外での国際モトレース視察と入手できる限りのレーサーマシン技術を参考に試作を繰返すことで一杯となった。  目黒製作所社長・村田延治も同じように考えを持ってはいたが、事は一企業で進展する内容では無いとも考えていた。 そこで、まずは国内二輪車メーカーによる耐久レースの常設によって二輪車技術レベルを押し上げて行くのがしいては 国産バイクの性能を国際レベルに向上させる近道と、日本小型自動車工業会や日本小型自動車競争連合会に考えを持上 げたのである。  国内に常設の耐久レースを設ける案に逸早く反応したのはやはりホンダであった。そこで早々有力二輪車メーカーに よる耐久レースの開催準備が始められることとなった。まずはどこで耐久レースが開催できるかが問題となったが最初 から専用コースの設置には難があり、できればホンダが目標としていた「マン島TTレース」を範に適当な地域の公道 によるルートが使えないかと模索、本場に見習い伊豆大島なども候補に挙がったが最終的に候補として持ち上がったの は群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢であった。主力メーカーの集まる関東や中京に近く、当時でも珍しく広大な土地が 未開拓に残った地域である。そのことはレース開催により近隣への迷惑を最小限に抑えられると共に、地元としても 大きなイベントの開催により地域の振興が見込めるとレース開催に協力を申し出た有力者からの誘致があり、その結果 関係省庁や地元自治体との開催調整が可能であったと云われている。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和30年10月、浅間高原レースと称される国産バイクのみ出場できる耐久レースが実施開催されることになった。 正式には第1回全日本オートバイ耐久ロードレースとされて、北軽井沢をスタート地点として国道146号線を2.6km南下、 国道に面してある牧場入り口を東にコースをとり浅間牧場内に設けられた4kmの専用走路を周り込むように進み今来た 国道に面した牧場出口から国道に戻り2.4km北上、先の牧場入り口を今度は左折して隣接の嬬恋村を鬼押し出し方向に 3.5km西進。そこから時計回りに5.5km進みスタート地点まで戻ると云う全長19.2qの公道と専用走路を織り交ぜた即席 コースが設定される。国道を含む公道といっても、舗装路は皆無で精々地均しされた程度の火山灰土剥き出し道である。 牧場内に設けられた専用走路も荒地を急ぎローラーで整地した程度。火山礫でガサガサの状況で、とてもロードレース と云えるようなコースでは無かった。  実行主催には国内二輪車業界を基にして新たに日本モーターサイクルレース協会が組織され、後援には旧通商産業省 、群馬県、そして地元代議士が名を連ねてあったと思われる。当時でも公道を閉鎖してイベントを実施するにはそれだけ の大義名分か後ろ楯があった筈である。公道レースは過去にも名古屋T・Tレースなどあるが、いずれもアマチュア扱い のために数々の制約や条件が付けられての開催であり本当の意味でのレースとは程遠い内容であった。その意味では、 このレースは官庁のお墨付きにより初めて本格的ロードレースとして公道の使用ができたと特筆できよう。そのためか 官製レースの様相を呈していたことによる条件も付いた。  レース結果について純粋なラップタイムを公表しないよう通達されたのである。恐らくはラップタイムを真似て暴走 レースを挑むアマチュアレーサーを刺激しないための措置と思われ、具体的な真意は今となっては分らないが自治体へ の配慮であったと思う。代わりにレースでの順位とゴール時での前車時差だけが発表を認められ記録は日本小型自動車 工業会の内部で参加メーカーに対してのみ活用できる条件とされたようである。  レース参加にも制限が加えられ、国内メーカー製オートバイによる参加のみ認められ出場マシンの部品も製作に至る まで全て国産であることが条件とされたのである。これは耐久レースの目的が国産バイクの技術振興とされて開催する 以上、通産省など監督官庁を立てる必要はあったであろう。今では何ら問題のないこの条件は当時の技術水準によれば 最大の難関となりシール部品や耐久性が要求されるねじ部品、キャブレターはアマル社製などの輸入製品やライセンス 製品を使用することの方がほとんどであった、レースに参加するには部品の入手から製作を考えなければならなかった。 ただ、最も耐久レースの開催に期待をかけていたホンダは基より自社内製による製品を旨にしていたことで有利な条件 ともなった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロはこのレースに向けて持てる技術を費やして6台のワークスレーサーを用意する。参加カテゴリーはウルトラ ・ライトウェイト(125cc)とセニアウェイト(500cc)として開発を進めた。125cc用には市場投入間もない市販車レジナE をベースに専用フレームを誂えたマシン(型式はRE)を2台、そして500cc用には市販車Zシリーズ用機関をベースとする が、前年の国際モトレース参加での経験から始めたOHC機構による4サイクル機関の研究成果をここに投入することに した。完成した500cc用マシンは二種4台、SOHCによるカムチェーン式と同じくSOHCによるベベルギヤシャフト式である。 カムチェーン式の機関はシリンダ横にカムチェーンを配置し回転をカムシャフトに伝える構成で型式はRZAとされた。 ベベルギヤシャフト式はシリンダ横に回転シャフトを立ち上げカム駆動回転を伝え、M・Wマークを付けたヘッド部に ベベルギヤ(傘歯歯車)を配置し回転をカムシャフトに伝える構成で型式はRZBとされた。いずれも主幹設計はT1セニア を手掛けるなど技術陣のホープであった鈴木滋治。フレームは125cc用同様に専用フレームが誂えられた。  村田社長はオートレースではない久しぶりのロードレースに新しいメグロの行く末を見出そうとしたのである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         三栄書房「サーキット燦々」大久保力・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)