〜メグロの履歴室〜:メグロ絶頂期(2)  昭和30年5月、第32回定期株主総会を開催した目黒製作所は、監査役の改選など案件も滞り無く済ませ、順調な経営 状況の中で新たな需要を得るのであった。同月、メグロ伝統の500cc車・Z5からモデルチェンジしたZ6を発表するが このオートバイこそメグロが白バイ需要を得る契機としたバイクである。  Z5からの主な改良点は機関性能の改善であった。特に最大出力は設計変更によりZ5の18HP/4000rpm から20.2HP/4400rpmまで向上し他社の同クラスバイクと何ら見劣りしない性能としたのである。この改良を 要求した依頼元こそ白バイの新機種採用に動いた警察庁であった。戦前期に僅か10台だが白バイとして採用されて以来、 戦後この時まで正式には白バイへの採用は無かったメグロだったが、この頃から独占的白バイ供給メーカーであった陸王 内燃機製造の業績が悪化し、安定的に白バイを供給することが怪しくなったのである。そこで警察庁から白バイの供給に関 して選定されたキャブトン号のみづほ自動車、ホスク号の日本高速機関、エムロ号のヘルス自動車(三笠技研)の各メーカー に並び、メグロも候補とされたと云うことになるのだが、当時のメグロ最新鋭車Z5では500ccクラスに在っては他社に 比べ性能面が非力であった。ただ耐久性や安定性で定評のあったメグロは有力候補とされて、メグロに対しての採用条件的 要望があったと思われる。これに応えた結果がZ6であり白バイ専用の仕様車であったと云えよう。  この年、白バイの新規採用は従来からの陸王号が80台。みづほ自動車からキャブトン号が新規に40台。そしてメグロ からZ6が新規に40台であった。メグロの白バイ需要はここから始まり、その直後に業績悪化で退出していった陸王号、 そしてキャブトン号に替わり、次期モデルのZ7、そしてK、K2へとメグロが白バイ需要をリードする時代が始まる。       ・昭和30年々間生産台数記録          650cc:T1型・・・・・・・・・・112台          500cc:Z5型・・・・・・・・・・360台          500cc:Z6型・・・・・・・・・・500台          350cc:Y型・・・・・・・・・・・816台          300cc:J3A型・・・・・・・・・・11台          250cc:S2型・・・・・・・・・4598台          125cc:E1型・・・・・・・・・・855台          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    生産台数合計・・・・・・・・・・・・7252台  250ccクラスは更に好評を博し500ccクラスを大きく凌ぐ4600台もの実績を得て、名実共にメグロの主力商品 として地位を固めるのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   一方、製造設備に対しても積極的に増備改善が進められ新しい技術も導入が進められたのである。フレーム部品製作専門 子会社である(株)大和製作所には国内最上級のバイクとして開発したT1「セニア」の電気溶接によるフレーム製造のため に電気溶接機を新規に設備。後に一部を除いてメグロのバイクは、全ての車種にパイプフレームへの電気溶接組み立て採用 とすることで高い品質信頼性を得て、その技術は引き継いだカワサキモータースのみならず、日本の二輪車製造技術の向上 につながっている。  またメグロの課題でもあった商品の軽量化を部品単位で進めるべくプレス部品の積極導入のため新たに専門製造子会社 として目黒板金工業(株)をメグロの本社工場付近に設立。資本金は400万円として内、目黒製作所は11月に100万円 を出資。代表取締役には加部秀重が就いた。メグロはプレス部品の多用は商品の軽量化だけでなく需要が伸びる小型バイク でも量産設備を持つメーカーの商品はプレス部品を多用して量産、コストの引き下げが顕著に観られることから、メグロも これに倣うように自らグループ内部に専門の工場を用意したのである。後に部品単位から進めて、小型バイクメーカーが主 に採用するプレス合成フレームにも技術挑戦し、昭和32年に発表する350cc・Y2レックスに試用。ある程度の結果を 得るが全面的な採用には至らず外装部品のプレス化に注力して行くようになる。  その他、125ccクラスの量産開始に合わせて専用の製造ラインを本社工場内ならびに烏山工場内に設備するなど、国内 有数のオートバイメーカーとしての実体に即した体制になりつつもあったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   販売代理店組織「メグロ会」においては、昭和30年には以下のような異動が生じている。 ・「メグロ会」会員の動向(昭和30年)    (解約)                           (新設)    滋賀・福井・広島・愛媛地区                   秋田地区・・・・・・・・・・・・田原商会        ・・・・・・・・・・・・中部くろがね販売(株)          新潟地区・・・・・・・・・・・・新潟金属興業(株)    新潟地区・・・・・・・・・・・・青山自動車商会              福井地区・・・・・・・・・・・・前田モータース                                   広島地区・・・・・・・・・・・・(株)ダテモータース                                   愛媛地区・・・・・・・・・・・・中矢自動車商会  この頃の異動で特徴的なのはメグロが自動車部品メーカーとして知名度が高いことでディーラーに就いた自動車販売 代理店が、直系の自動車販売に重きを置く傾向が強くなり「メグロ会」を離れて行くようであった。特にメーカー同士でも 交流のあったくろがね自動車は主力のオート三輪車専門の傾向が強くなり搬送用自動車と競合にある大型の実用二輪車 とは顧客層が重複するようになりつつあったのである。中部くろがね販売のように大手ディーラーの場合、一社で広範囲 に販売代理店契約がされていたので、撤退されると大きく販売空白地域が生じかねなく、その補填は急務であった。  ただ、幸いにしてメグロは高品質で人気がある高級二輪車と云うブランドが定着しつつあったことから、販売代理店に 参加を希望する二輪車販売店も増加して居りメグロにとっては却ってきめの細かい販売網が構築出来るように変化して きていた。  なお「メグロ会」会長は、改選に於いて山梨・長野地区総代理店の甲信メグロ自動車(株)社長・萩原徳憲氏が就いている。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)