〜メグロの履歴室〜:メグロ絶頂期(1)  昭和30年に入り、メグロの業績は更に伸びるのであるが、これは前年の創業30周年を機に展開した宣伝活動による処 も少なからず在るようであった。ただ景気は朝鮮情勢が停戦により安定に向かったことで特需は収まり、全般的には不景気 状況ではあった。しかし戦後10年を経てくらしにも若干ではあるがゆとりの出てきた消費者にはオートバイは格好の購買 希望商品ではあったのである。  いちばん良く売れるのは150cc以下の小型バイクで今のマイカーと同じような感覚であった。更に前年に125ccまで のバイクが第二種原動機付き自転車に指定され実技試験無しの許可証で乗れるようになり、125cc未満のバイクが脚光を 浴びるようになった。この勢いにメグロが参入を考え始めるのも当然であるが、この頃すでに性能や品質、価格による市場の 選別が起こりつつあり、この年は戦後の一大起業産業であったオートバイ業界の第一次淘汰期として、経営不振で倒産する メーカーが続出。特異性も生産性も乏しいアセンブリーメーカーを中心に数百社とも云われたオートバイメーカーは半減 する厳しい状況でもあった。一方ではホンダ、スズキ、昌和といった量産設備を持つメーカーにシェアは集中し、全体として 観ればオートバイの生産台数は伸び続けていた。  そこでメグロの次なる目標として企画された商品が先の125ccとメグロ最大となる650ccの各排気量クラスの車種 であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   125ccクラスの新型車は6月に完成、発表される。機関はメグロとして初めてのモノブロックユニット式となり、ボア× ストローク・52×58とロングストロークのOHV単気筒に組み込まれたトランスミッションは上級車に同じく4段ロータ リー式である。変速4段は当時としてはこのクラス初であった。また点火方式もバッテリー点火方式を採用する等、ユーザー の利便性を考慮した意欲作であった。しかし中大型バイクを主としていたメグロが最も苦慮した「如何に軽量化するか」と云 う課題の解決は容易ではなかった。どんなにフレームを簡素化したりワンサイズ下の鋼材を使ってみても、耐久性と品質を 重視すれば重くならざる得ないバイクとなったのである。それでも人気が出てきた250ccクラスに対しては入門車的仕様 として、メグロを欲するファンには入手し易い小型二輪車に、高級車としてのブランドイメージが出来つつあったメグロの 購買層を拡げる期待が込められていた。E1「レジナ」と名付けられたメグロ125ccは、ヒットするとの思惑により専用の 生産ラインが設けられて量産が開始されるのであった。  これとは対照的にメグロのブランドイメージを象徴させるような国内最上級のバイクとして、海外の高性能バイクを参考 に開発された650ccクラスの新型車は7月に完成、発表される。T1「セニア」と名付けられたメグロ650ccは、今までの 外国車ベースに造られた他社のようなコピーバイクではなかった。手本としたのはトライアンフやノートンと云った当時の 輸入最高級車であるが、それらのスペックに近づけるため仕様のみを合わせて、メグロとして初めて並列二気筒機関を搭載し 後輪懸架にはスイングアームを取り入れて、実用車としてではなくより走りを重視したスポーツ車として完成させている。 また品質面でも最上のものをと、鋼管構成のフレーム構造をZ97以来の丸鋼管ろう付け組立から、電気溶接組立を同構成 フレームとしては他社に先駆けて取り入れるなど先進的な技術の採用もされた。こうして登場した「セニア」はバイクファン にとって羨望のオートバイとなり、最高級に相応しい車であった。  これら新型車の誕生によりメグロは125ccから650ccまで五種類の排気量クラスによるバイクをラインナップとする 国内有数のオートバイメーカーに成長したのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   ただこれら新型車に対するメグロの思惑とは裏腹に、市場での反応は冷静であった。確かにメグロの125cc車は時流に 沿った登場であったが、既に多種多様な小型二輪車が競っている中で、中大型バイクのイメージが確立しつつあったメグロ ブランドの125cc車に敢えて興味を持たせるには十分では無かった。実用車然としたE1「レジナ」より少々品質が劣って いてもスタイルや出力・速度などカタログスペック、価格が選択の基準となっていたのである。メグロのオートバイメーカー としての最初のつまずきであった。  T1「セニア」に対しても同じであった。国産最上級に相応しいオートバイの誕生は、創業30周年を迎えた目黒製作所の誇 りでもあるが、市場がほとんど無かったのである。参考にされた海外の高性能バイクにある程度の需要が観られたのは、海外 のトップブランドであることが選択の基準となっていたのである。国産による同レベルの品質を備えた高級車が登場したと 云われても、メグロブランドは高級な実用車であって決して海外のトップブランドが持っていた高級なスポーツ車では無い のであった。結果として新聞社などマスコミプレス用としての実用性を買われて販路を見いだすこととなったが、やがて販売 実績につながらないカタログ誌上だけのモデルになっていった。当時の実勢物価から比べてT1は今の500〜600万円 にも相当するオートバイでは無理もないことである。  これら問題は後々オートバイメーカーとしての目黒製作所の立場を危うくする要因の始まりとなってしまうのであった。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)