〜メグロの履歴室〜:国際モトレースへの参加(3)  サンパウロ市開市400年記念国際モトレース参加のためにブラジル・サンパウロ市に滞在して1週間が経とうとしていた。 随行のマネージャー・ホンダの馬場利次はレース監督兼整備担当兼広報活動と多忙を極めてはいたが、日本チームを代表して の立場から積極的に日本のオートバイを宣伝して廻っていた。ホンダライダーの大村美樹雄とメグロライダーの田代勝弘は、 走行練習を重ねるうちに初めて体験するサーキットにも慣れ始めていた。直線区間はレーサーマシンの優劣が左右して日本の マシンでは到底太刀打ちできない。だがコーナーではオートレースでの経験から工夫すれば外国勢よりも速く走り抜けること ができるのではないか。二人のライダーはこの点を重点に置いて走り込んでいた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   最悪のアクシデントが起きたのはそのような1月26日であった。2月6日に行われる最初のレースに向けて日本チームが 唯一、優位に立てそうな直線区間から左コーナーへの入り区間を、他車以上の速度でメグロライダーの田代が突っ込んで行く。 だが同じコーナーでもオートレースには右コーナーは無い。むしろ外国勢よりも苦手に思えた右コーナーで事故は起こった。 田代は右コーナーで不意に足を出してしまいバランスを崩してしまったのである。あっという間に転倒落車、田代は投げ出さ れて固い舗装路の上を滑走して止まった。  Y型レックスを改造したレーサーマシンは大破、田代も身体の右半分に重傷を負う。直ぐさま病院に運ばれた田代の傷状は 想像以上に重く、右手の薬指と小指は骨が見える程に関節骨折していた。また舗装路の上を滑走したことで右顔面から右肩に かけて大きく擦過傷を負い、全治40日以上の診断が宣告されてしまう。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   悪い知らせは1月27日、日本の目黒製作所社長・村田延治に伝えられた。村田社長は田代の傷状を心配するが命に別状無い ことに安堵した上でモトレースでの出走を継続させるか否かの判断を迫られるのである。田代の傷状は重いが、最初のレース には1週間ある。快復状況によって出場は可能になるかもしれないなら出来うる準備はしておこうと、とりあえず大破した マシンに替えて同仕様のY型レックス改レーサーマシンを急遽製作準備させる。何とか2月上旬には飛行機便でブラジルに 送る段取りであった。だが田代に替えて別のライダーを選出することは断念する。今からとなると難しいと報告の来ている サーキットにぶっつけで出走しなければならない。それにオートレースのスケジュールを崩してまで選手を捻出するには時間 が無い。後は奇跡が起こるのを祈るしか無いのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   ブラジルでは馬場が思案していた。事故が起こってしまったのは今更どうしようもない。メグロのレーサーマシンとライダー が現状では出走できないのに、最初のレースまでぎりぎり快復を待っているのもどうしたものか。折角のチャンスであることは 解っているがこのままではホンダでの出走レースにも差し障りが生じる。ここはホンダやメグロとかで考慮せずに日本チーム としてモトレース参加を成功させることに専念しようと決するのであった。  馬場は心を鬼にして、田代にはレース監督としてホンダのみでレース出走すると伝える。無念ではあったが田代は従わざるを 得なかった。この報告は日本の村田社長の元にも届き、一同は失望と落胆を隠せなかった。だが今回のことはメグロだけの問題 では無いことは理解していた。レース出走を頑なにして日本チームとしての足を引っ張るようではモトレースへの参加の真意 が失われてしまう。ここは現地での責任者である馬場の判断に従う事としたのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   レース欠場が固まった田代の分もあり、後が無くなった大村はより慎重にレースへ臨む事となる。とにかく無理はせずに完走 することを重きにした練習を重ねたのである。レースの予定日であった2月6日は悪天候となり一週間延期され、そして迎えた 2月13日。インテルラゴスサーキットには参加チーム各国の国旗が掲げられ、出走前の張りつめた空気が華やかな中にも漂う オートレース特有の雰囲気である。125ccクラスに出場する大村のマシン、ホンダ・R−125のゼッケンbヘ"136"。その 傍らには病院を出てきた田代が右手の包帯が痛々しい姿のまま、不安げな面もちで出走を見送っていた。  予備走行のタイム順に出走、コースを8周するのであるが、監督役の馬場は気が気では無かったと云う。「周回して来るたびに 次は戻ってこないのでは・・・と。待ってる方が疲れてしまいました」と、後に回顧している。そして8周目を終えてトップには イタリアのネロ・パガーニが乗るモンディアルがゴールへ飛び込み、続いて僅差でイタリア勢が2、3位とゴールしてきた。前半 は最下位で周回していた大村のマシンは後半になると何台か追い越した様子で順位を上げていたのであったが、最後まで油断 できなかった。一台また一台とゴールしてきたバイクの13台目にゼッケン"136"を見つけた馬場は、込み上げる思いに 涙が溢れていたと云う。それはホンダのバイクがと云うよりも純日本製のオートバイがサーキットを走りきったと云う、そして 目的を成し得た安堵からであったかもしれない。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   終わってみれば出走25台中、13位での完走は見事としか言いようが無い。大村は田代の事故を教訓として直線はいっぱい に飛ばし、不利で危険な右コーナーを慎重に抜けて、得意の左コーナーで追い上げるという走行を心がけて走り抜いたと云う。 加えて8周を走りきるだけの耐久性を維持するため練習走行後マシンを分解し細部を観察してまた組み立てるという繰返しに より確実に走りきるだけの整備ができたことにもよる。この経験は後に本格的な国際モトレース参加を企てたホンダにとって 貴重な作業であった。田代は馬場と共にコース上でその結果を目の当たりにしたが、好結果に安堵すると共に自身が欠場した 無念さに複雑な思いではあったであろう。そして日本で知らせを聞くメグロ・村田社長も同様である。しかし結果として観れば 当時のオートバイ業界にとっては貴重な経験を得ることができた出来事となったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   日本チームの帰国も大変であった。当初その経費にしようと考えていた、主催者からの競技賞(スターティングマネーとされ 出走ライダーひとりに付き7000クローゼ:当時1クローゼは8円:が支給)が田代の欠場により大村ひとりの金額しか出な かったのである。田代の治療費などで予定より多く出費していた彼らは苦肉の策として持ち込んでいたマシンと部品、工具など を他のチームや競技関係者に有償で譲り置くことにしたのである。持ち掛けられた彼らにしても、さしてほしいと思わなかった のではないかと想像するのだが、共に競技したチームの苦境に快く応じたと云う。田代の傷が癒えたの見計らい、ようやく帰国 の途に付いたのだがアメリカ経由での5日間という長旅であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   3月3日、帰国した彼らを関係者は歓迎して出迎えた。何より国際モトレースに出場を果たし完走してきた実績は、オートバイ 業界にとって重要であった。更には馬場が苦労して持ち帰った貴重な海外での情報は宝物のようであった。メグロ・村田社長らは それらの資料から海外の先進バイクメーカーの実状を知り、その格差に愕然とすることになる。「このままでは期待している日本 製のオートバイ輸出どころか海外のメーカーに日本の市場を奪われかねない。」危機感を持った村田社長をはじめとする業界 関係者は行政主導的にオートバイ技術の振興を希望し、財政的補助と技術情報の収集支援を要望する。後に旧通商産業省は 海外の先進メーカー製バイクを参考輸入して、これを日本小型自動車工業会に貸与して国内各メーカーに巡回貸し出しをする。 この中にはサンパウロ市でのレースで優勝したモンディアルをはじめイタリアの名門メーカーMVアグスタのマシンなども含まれ て居りその後の日本のオートバイ技術向上に多大な影響を与えることになる。  村田社長はこれを契機に従来の戦前期より継承してきたOHV4ストロークによる技術だけでなく先進技術であったOHC機構に よる機関の開発に着手する決意を固めるのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   一方、ホンダ社長・本田宗一郎は彼らの成果が嬉しくて仕方なかった様子で一報を知るや驚喜して社内を知らせ廻ったと云う。 「本社に帰朝報告のため訪れ、社長に面会すると、やっと帰ったか。ご苦労さん。と、新聞を読みながら言うだけだったが、後から 一報後の様子を聞いて社長の照れ隠しだったとわかりました。」と、大村は後に回顧している。またホンダの社内報誌に対しては 「今回の成績はマシンの性能差による結果であり、故障せずに完走できたことには満足している。他の選手はコーナーが遅いの で操縦技術では負けていなかったと思う」と答えている。馬場は「今回の経験は特に先進メーカーの技術は大いに参考となった。 ただオートレースとしては彼らはマシンに乗っているだけと云う印象でマシンに全てを頼っている。そしてマシンの性能を完全 には理解していない様子であった。」とも言ってのけた。  そして本田社長は先年末からのクレーム処理や業績不振に一定の目処を付け、混迷する社員の意志をとりまとめる手段とし てまたはオートレース好きによる自らの目標でもあった国際モトレースに挑戦する意志を固めるために、かの有名な「TTレース 出場宣言」が発表される。ホンダもまた、メグロとは異なるがひとつの大きな目的を得て、今につながる飛躍の起点と成し得たの であった。                                              (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本放送協会出版「プロジェクトX"挑戦者たち"命輝けゼロからの出発         〜制覇せよ世界最高峰レース/マン島・オートバイにかけた若者たち〜」NHK「プロジェクトX」制作班・著         文春新書「本田宗一郎と「昭和の男」たち」片山修・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)