〜メグロの履歴室〜:国際モトレースへの参加(2)  昭和29年に入り準備はあわただしく進められた。サンパウロ市開市400年記念国際モトレースの開催予定日は2月6日 と7日であるがどうにか間に合う目処がたった。  メグロは350ccY型レックスをベースとして最小限の改造に留め、しかしながらオートレースでの経験を踏まえ操作性や 走行性を中心に整備を施したレーサーマシンを完成させる。初めての海外でのレースに日野文雄をはじめとした技術陣は何と しても好成績を残したいと懸命であった。対してホンダも日本最小クラスの4ストローク機関搭載にして実績のある150cc ドリーム3Eをベースとしてボアダウンと耐久性を中心に改造したR−125を完成させた。  ただ両社ともオートバイレースと云えばギャンブルレースかアマチュアによる耐久レースしか見たことが無く、海外の事情 は伝え聞くことは出来ても全く未知の体験である。国際モトレースと海外バイク市場を知るチャンスに期待と不安が交錯する のであった。   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   日本チーム一行三名の出発は、まだ正月も明けやらぬ1月13日であった。これに先立ち一行は、参加メーカーの代表として 目黒製作所社長・村田延治を伴い、後援する旧通商産業省を訪問し愛知通産大臣に出発の報を伝え激励を受ける。村田はこの様 な晴れがましい行事に参加できることを誇りに思ったことであろう。一方、本田技研社長・本田宗一郎は対照的であった。社内 での出発報告には素っ気なく「勝敗はよいから、とにかく完走して日本のバイクは頑丈なところを見せてきてくれ。それから、 海外メーカーと市場の状況を是非とも見てきて欲しい」とだけ希望してさっさと部屋から出ていってしまう有様。出発日の夜、 羽田空港での壮行会にも姿は無かった。しかし内心は国際モトレースに送り出せた喜びに浸っていた様子ではあった。  壮行会には村田の他、両社と日本小型自動車競争連合会の関係者、多くの報道陣が集まり、仕立てた正装を纏う三人を囲んで の騒ぎとなっていた。メグロの日野は勝ってこいと言わんばかりに声援を送る。ただ三人の内心は喜びよりは不安でしか無い のであった。搭乗のタラップで報道陣に応える三人の表情は終始硬いのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   とにかくも出発はしたものの大変な道行きである。飛行機には三人のみならず二台のレーサーマシンも分割されて手荷物に 在ったのである。準備日程に追われて船便で送ることが出来なかったのである。渡航の行程もブラジルまでは欧州経由、しかも 今のようなシベリア経由ではなく南回りの上、給油の都度サイゴン(現ホーチミン)、カラチと経由してようやくローマに到着。 しかもブラジル行きの飛行機が出るのはパリからで次便は1月17日。乗り継いでパリに到着したのは二日目の昼であった。  パリで一休みできるものの言葉も判らず、随行のマネージャー・ホンダの馬場利次は「自分たちがパリの何処にいるのか見当 が付かない状態。折角だからエッフェル塔だけでも見ておこうとホテルから歩いて行ったものの、帰りはホテルの場所が判ら ないので仕方なくタクシーに乗って、ホテルの名刺を見せて何とか帰り着いた」と後に回顧している。  1月17日昼にパリを出発。ここからも給油の都度マドリード、ダカール、リオデジャネイロと経由。国際便と云っても航続の 短いプロペラ機での旅。サンパウロ・コンゴニアス空港に到着したのはパリを出発して24時間後、日本を出てから5日も後の 18日昼であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   到着した三人は開かれた飛行機の扉の向こうに信じられない光景を見る。三人を出迎える歓迎の人々。飛行場ではレースを 主催する企業の会長、ならびに日本国総領事代理などお歴々による出迎えを受け、通関後にはブラジル・日本の両国国歌吹奏。 そして宿泊先のホテルまでは30台あまりの白バイによる先導が付くという国賓並の待遇である。ホテルも当地最高級クラス であった。ただ当の三人は5日に及ぶ長旅の疲れと経験したことのない時差にふらふらの状態にあった。  翌日からも歓迎の行事や挨拶回りでスケジュールは多忙であった。レーサーマシンなど運んできた荷物の通関、組立と整備、 レースコースの視察と必要な作業も目一杯である。中でも馬場が苦労したのは金策であった。当時はまだ外貨の持ち出し制限 が厳しいため多くの額は用意できなかった。それでも馬場にはホンダから200ドルの餞別があったのだが、現地での行動には 金銭補助は無く、全て三人で賄う必要があったのである。そこで最も負担となった最高級クラスのホテル代を節約しようと早々 日本人街にある一泊1500円のホテルへと移り、夕食も安い店を選ぶようにしたのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   レースコースはインテルラゴスサーキットである。正式には「Autodromo Jose Carlos Pace」と今は称されて後にF1やMOTO- GPのコースとして幾度と無く激戦の舞台となるコースである。三人はコースを視察して唖然とする。まるで飛行場のように広大 、そして滑走路のような直線。何よりも日本のレースでは経験したことのない全てが舗装されたコースであった。コースを観察 してみるとコーナーも多く左右に振れて居り、起伏も在った。日本のオートレースではダートのオーバルコースを周回するのに 対して、舗装路も左右のカーブも起伏も全くの未経験で臨まなくてはならなかったのである。三人は恐怖に近い不安を感じる のであった。  コースを練習する他チームの格好も異なっていた。出来るだけ無駄なく身体にフィットしたレーシングスーツに対して、持参 のレース着は上下だぶだぶのレザーウェアに革の当てものが縫いつけてある。そして他チームのレーシングブーツは底の薄い 造りであった。三人にしてみれば他チームとのウェアの違いが不思議に思えたが、彼らの走行フォームを観て理解する。  日本のオートレースではプレーキングは足で、コーナリングも足とハンドリングによる押さえ込みで廻って行く。しかし彼ら はマシンにしがみつき手足を外に出そうとしない。そしてコーナリングでも身体ごとマシンと一体になって廻るのである。 そして何よりスピードが速くライダーはマシンと一身に弾丸の如く直線を流して行くのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  レーサーマシンの差は更に歴然としたものであった。マシンは流線型のカバーに覆われている。カウルと云うものを見たこと がなかった。ハンドルは極端に低くライダーは前傾の姿勢でマシンにしがみつく。そうで無ければ高性能な強馬力でスピードが 出せるマシンから振り落とされてしまうに他ならないのであった。日本から持ち込んだ二台は精々、十数馬力の時速百キロ強の マシン。対して外国勢は数十馬力の160km/hにも及ぶ最先端技術によるマシンである。変速もオートレース仕様の2段に対し 外国勢は5段。その分ブレーキ性能は舗装路で確実に効くもので貧弱な日本チームのマシンとは比べものにならない。  「我々はただ単にスピードが出せると云うだけのマシンを持ち込んだ。しかしこのサーキットで通用するマシンではない。 ましてや対戦する欧州の最新鋭レーサーマシンに勝てる見込みは当面無いだろう」と、ホンダライダーの大村美樹雄は現地での インタビューに答えている。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   とは云う者の、いまさら逃げることもできず、外国の強豪チームに混じって走行練習を開始する。メグロライダーの田代勝弘 は、実際にコースを走る内に気が付いたことがあった。外国勢は直線は確かに速いが、コーナーにさしかかる途端にスピードが 落ちて抜けるとまた加速して行く。 「日本のオートレースなら左回りはブレーキも掛けずに廻して行くことが出来る。これはもしかすると・・・」と思ったのである。  一方、馬場もマシンの整備の傍ら本田社長や日本小型自動車競争連合会から言われてきた状況視察も精力的に始める。が、 外国勢は最新鋭のレーサーマシンである。これは企業秘密も当然であり、そう簡単には観せてはくれない。そこで彼らにとって は珍しい日本チームに声を掛ける他チームの関係者に出来るだけ好意的に振る舞い、一人でも多くと知り合いになり、お互い うち解けた頃合いを診てレーサーマシンと共に記念写真を、と恐る恐る切り出してようやくマシンの撮影に成功する。その内 練習用に自チームのマシンを貸してくれるチームまで出てきて、厳しい中にも着実に目的を果たしつつあった。  そのような走行練習の最中、とんでも無い事態が発生したのである。                                              (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本放送協会出版「プロジェクトX"挑戦者たち"命輝けゼロからの出発         〜制覇せよ世界最高峰レース/マン島・オートバイにかけた若者たち〜」NHK「プロジェクトX」制作班・著         文春新書「本田宗一郎と「昭和の男」たち」片山修・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)