〜メグロの履歴室〜:国際モトレースへの参加(1)  それは昭和28年秋のことであった。南米ブラジルの国際都市でもあるサンパウロ市より日本政府に対して開市400年を 記念して催される行事への参加要請が届く。サンパウロ市は翌年に開市400年という節目となることから関連の記念行事を 企画、内外からの行事参加を募ってのことであった。ブラジルには戦前期より多くの人が日本から移住して居り、戦後に於いて もブラジルへの移住渡航が募集されている頃でもあり、特に日本との関わりは他国に比べても強い状況にあった。そこで、日本 政府はそのような状況もふまえて最大限この要請に応えるべく各行事への対応準備を始めるのであった。その記念行事の中に 開市400年を記念した国際モトレースの開催が有ったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   その年も暮れに入り各行事への対応準備は順調に進むがひとつ国際モトレースに関しての対応は棚上げにされていた。行事 への対応準備していたのは外務省であった。外交親善活動の一環として記念品等の贈答準備や使節団の編成に追われていたの であるが、国際モトレースに関しては全く見識がなかった。当時国内でレースといえば、旧通商産業省による産業振興の手段と して開催されている事業であり、それらは競輪であれボートであれ、もちろん自動車によるオートレースも国内での競い合い であり国外との関連は皆無に等しく交流も無かった。そこで外務省の担当官はとりあえずこの案件を関係所轄であろう通産省 へと廻したのであるが、これを受けた担当官は前例のない案件を持て余し事実上の店晒しとしてしまうのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   偶然であった。その担当官は別件で会見していたある人物に対し、実はサンパウロ市からオートバイレースに参加しないかと 招待されているという話を持ち出したのである。その人物とは日本人として初めて英マン島T・Tレースに出場した多田建蔵 その人であった。当時、多田は国内のモータースポーツの進展に努めるなど二輪車産業界に影響力もありまた海外でのモーター スポーツ事情にも精通していたのである。国際モトレースへの参加要請が届いているなどとは夢にも思わぬ多田は、参加をお断 りしようと思うなどと言う担当官に驚きながら、何と勿体ないことを、と日本国内での未熟なモータースポーツ事情と海外での 状況、そして当時の実力では決して参加は不可能である国際モトレースに、招待でも参加できる機会は滅多にないとして、何と しても招待を受けるべきだと強く勧めたのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   多田は早速、この件を日本小型自動車競争連合会に持ち込み国内バイクメーカーへ参加の希望を打診する。これには多くの メーカーから、どう転んでも出場などできない海外でのオートバイレースに参加できるとあって関心が寄せられたのであった。 そして5社による団長以下ライダーおよび関係者総勢12名の日本チームが結成される。ところがいざ外務省を通じて主催者 側に国際モトレースへの参加意向を伝えると予期せぬ返事が返ってきたのである。  主催者側は、招待はしたが期限が来ても参加の可否回答が無く、既に出場国とチーム、プログラムもまとまり、今から出場と 云われても変更や追加は難しい、と言うのである。  多田らは、ここで断念してはチャンスは無いとして改めて強く参加の意志を主催者側に申し出て結果、追加して出場を認め させることに成功する。ただ当初、招待チームには全ての経費を用意するとした条件は既に他の招待チームに対しての予算割り を済ませており追加して日本からの参加チームには便宜できないと言ってきた。これには参加を希望したメーカーは愕然と する。と云うのも未だ海外へ行くには特別な事情が無ければ不可能であり出かけられるとしても高額の渡航費が必要であった。 多くのメーカーは知名度はあっても資金に余裕のあるところはほとんど無く、参加を断念せざる得なかったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   多田らは再度交渉する。全額とは言わないから有る程度参加経費を出して欲しいと。そしてようやくライダー1人分までは 出してもらうこととなったのである。そこで残りの必要経費を出してでも出場の意志を表明したのが本田技研と目黒製作所の 二社であった。二社は残りの必要経費を折半と云うことで賄うことにして、ホンダは社員でオートレースにも選手登録されて いた大村美樹雄を、メグロはオートレースでメグロに乗っていた田代勝弘をライダーに選んだ。出場するレースカテゴリーは、 ホンダは得意とする小型車125ccクラスとし、レーサーマシンにはホンダ・ドリーム3Eを改造したR−125を製作した。 メグロは同じく得意とするセニアクラスでの出場も考えるが、メグロの最新鋭Y型レックスで挑戦することを決めてレーサー マシン仕様に改造して350ccクラスにエントリーしたのであった。随行者は経費の加減から1人のマネージャーを付けるに 留め、ホンダの技術者・馬場利次があたることとなったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロ社長・村田延治は何としてもこのチャンスに海外でのPRとオートバイレースの情報を得ようと期待していた。創業 30周年を迎えて絶好の宣伝材料にもなる。更にレースで好成績でも残せるなら日系移民の多く住むブラジルでの事業つまり は製品輸出の可能性を模索してのことでもあったのであろう。  ホンダ社長・本田宗一郎にしても考えは似たようなものであったのだろう。ただホンダにとってはもっと深刻であった。事業 規模は既にメグロを凌ぎ月産1万台もの実力を有していたが、先年に発表したスクーター・ジュノオの評判が悪く、従来からの 実用車シリーズも頭打ちの状況に売上が伸び悩んでいたのである。そこに、このチャンスはメグロと同じような意味があったと 考えられなくもない。ひとつだけ間違いなく共通した思いが有ったとすれば、それは海外メーカーとの力くらべがしてみたいと 云う根っからのオートレース好きからの欲求であったに違いないと思う。  こうして日本製オートバイによる初の国際モトレースへの出場が決定したのであったがスタートラインに並ぶまでにはまだ 多くの難題が待っていたのである。                                              (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本放送協会出版「プロジェクトX"挑戦者たち"命輝けゼロからの出発         〜制覇せよ世界最高峰レース/マン島・オートバイにかけた若者たち〜」NHK「プロジェクトX」制作班・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)