〜メグロの履歴室〜:メグロ躍進期(5)  昭和28年から30年の頃というのは、メグロ同様にメーカーがバイクを造って出せば何でも売れるという状況となり、 オートバイメーカーの数もピークを迎えようとしていた。ガソリンが自由に買えるようになり、免許制度も250cc未満 (2スト車は150cc未満)の車が簡便に取得出来るようになったことで、このクラスのシェアが圧倒的な拡大を見せる。 ホンダや昌和、そして新規参入してきた小型発動機メーカーだった東京発動機(トーハツ)といった小型バイクのメーカー がオートバイ市場の主役に成りつつあり、昭和28年にはスクーターの生産台数が世界第二位とイタリアに次ぐ規模の産業 へと成長していた。この状況を象徴するかのようなイベントが開催される。名古屋T・Tレースである。プロによるオート レースが開始されて後、アマチュアレースは公に認知されなくなった事にアマチュアレーサーからのレース開催の要望は 増すばかりであった。また経費の掛かりすぎるオートレースには参入できない小型バイクメーカーからもレースの開催と 参加が望まれていた。これを受けて、全国小型自動車競走会連合会は小型オートバイメーカーの振興を名目に、小型バイク メーカーによるロードレースを企画したのである。しかしながら日本国内では公道を使っての無制限なレースは認可されず 苦肉の方策として出来たルールは、道交法遵守の走行パレードという表向きの条件の中で如何に短時間で指定のコースを 廻ることが出来るかで勝敗を決するという内容であった。とは云え全行程233kmにおよぶコースを走り通すにはそれなり の性能を持ったバイクが必要ではあった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   名古屋タイムズ社が主催となって昭和28年3月21日、「全日本優良軽オートバイ旅行賞大パレード(名古屋T・Tレース)」 は開催され、参加台数53台、参加メーカーには地元のIMC、ポートリーライナー、ライラック、ホンダ。新生した昌和やポニーモナークも出てきたが 実はポニーモナークではレース選手になることを禁じられていた「目黒製作所」社長・村田延治の娘婿で社長の村田不二夫が自ら 出場していた。もしかすると「この催しは小型バイクのパレードだから」などと言い訳しての参加ではなかったかとも思う。 結果は各メーカーとも善戦して参加台数中42台が完走している。個人賞を征したのは昌和であった。ホンダも2位となり メーカーに贈られたチーム賞ではホンダが優勝、不二夫のポニーモナークも3位を獲得する。 とはいえ中には機関やフレーム、ブレーキなどの破損という支障にリタイアするバイクも出て、生産台数では大きな産業に なったとは云え、技術面ではまだ未熟な日本のオートバイメーカーの実状を浮き彫りにする契機となった。ただこのレース で優秀な成績を得たメーカーはこれをきっかけとして性能を誇示してその後の業績拡大へとつなげることに成功するので あった。逆に不満足な結果に終わった弱小メーカーには厳しい状況が待っていたのである。なぜなら既に市場の評価は走れば 十分ということから、耐久性、快適性という性能面でオートバイを選ぶように成りつつあった。  メグロは名古屋T・Tレースには直接関わってはいない。レースの主旨が小型バイクメーカーの育成を目的としたことに 他ならないが、村田社長はレースによって製品の品質向上と小型バイク市場の業界全体に及ぼす影響を痛感したのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   オートバイ製造業界に於けるメグロの位置付けは、既に主力メーカーではあったがトップメーカーではなかった。主要 メーカーでのトップはスクーターメーカーである。これに続いて小型バイクメーカーであるホンダ、トーハツといった新興 メーカーによって月産1万台の大量生産が始まって、他にも関西では新明和興業のポインターが人気となっていた。 そのような中、昭和29年に従来、軽二輪とされていた125cc迄のクラスを新たに原動機付き自転車(原付)という区分に 分離、第1種を50cc迄、第2種を125cc迄とした免許制度改定がされたのである。この改定で125cc迄は登録制という ことで実技試験なしで乗ることができるようになったことから主力メーカーは更に125cc迄のクラスを中心に増産を図り、 また浜松では日本楽器が海外視察の成果として125ccクラスでの参入を始めようとするなど、勢いが増していた小型バイク にメグロとしてもこのクラスへの参入を考え始めるのであった。  一方、メグロの主力商品である大型バイクはと観れば、メグロは中堅メーカーの程度に留まっていた。大型車で群を抜いた のはライバル「キャブトン」のみづほ自動車である。みづほは宣伝活動に注力することでメグロを大きく引き離すだけの知名度 を得て実にメグロの倍以上の二万台を年間販売する規模にあった。「陸王」の陸王内燃機は白バイの主力メーカーとして官需を 軸に安定した実績を得ていた。だかメグロの村田社長は企業規模に釣り合わない宣伝や売り込みを避けて、品質の向上と安定 に注力しつつ、販売網組織「メグロ会」による主力販売代理店の努力と口コミで着実に実績を伸ばしていったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   しかしながらメグロも従来からの改良車による販売だけではこれ以上の躍進は見込めないことは判っていた。村田社長らは 大型バイクに於いてはトップブランドであった「陸王」と「キャブトン」を凌駕するような車の開発を、そして小型バイクに於い ては最も市場の伸びが期待された125ccクラスへの参入を目指した車の開発を、平行して始めたのであった。  だが、これら新事業が後にメグロの好調な業績に影を挿す要因となり、やがてより深刻な影響の基となってしまうのである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)