〜メグロの履歴室〜:目黒製作所創業まで(3)  大正13年春、村田延治と鈴木高治は行動を始める。二人が一度に「村田鉄工所」を抜け出る訳にはいかない。 ましてや、村田は名目上とはいえ経営者である。そこで、まずは鈴木が都合退職ということで「村田鉄工所」を 離れ、独立に向けての準備を進める事とした。  先立つものがない。 二人はとりあえず資金を出してくれそうな知り合いに工面を願い、なんとか工場と機械を用意できる目途がたつ。 同郷の知り合いであった高橋倉次郎は、村田のために当時の大金200円を出資した。 高橋はその後も何かと村田の面倒をみたが、後に高橋が窮地に立った折り村田はメグロに高橋を迎え入れてこの 時の恩にこたえたのだった。  さて、工場をどこに開こうか? 二人が目を付けたのは東京荏原郡大崎町桐ヶ谷712(後・品川区大崎本町3丁目575→現・品川区西五反田 4丁目32付近〜かむろ坂下あたりから東急目蒲線不動前駅にかけて)で在った。 ここは当時、市街の外れで工場が多い地域として地代が安かったのである。省線目黒駅から西へ歩き、目黒川を 越えてしばらく行くと桐ヶ谷である。 この辺りは土地が低いため、よく水が溢れ出たと云う。ここに、二人は工場に使われていた四軒長家を見つけ、 ここで独立することを固めた。 まず鈴木がこの四軒長家に家族で移り住み、「鈴木鉄工所」として立ち上げ準備を始めたので在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   大正13年初夏、村田は意を決して「村田鉄工所」の実質的オーナーである勝伯爵に事の次第を白状し、 勝からの独立を願い出たのである。勝の個人的欲求から誕生した町工場ではあったが、「ヂャイアント号」開発 経費などに3万円をも費やしており、そう簡単にまとまる相談では無いと村田は感じては居たが、勝は暫し思案 の後、この申し出を快く受け入れた。 おそらくは勝自身も「ヂャイアント号」の失敗に今後の「村田鉄工所」の在り方を模索して居たのかもしれない。 勝も、もしかすると村田に町工場の閉鎖を言えないでいたのであろうか。  勝は村田と鈴木の前途を祝って「村田鉄工所」を閉めた。 その後も何かと村田とは繋がりが在ったと云うが、村田の心中には複雑な思いが在ったようだ。 勝はその後、浅野セメントの監査役などを務めるが、昭和7年に45才で没している。  大正13年8月、「鈴木鉄工所」に村田が合流した。 工場兼住宅の四軒長家には鈴木の家族が既に住まって居たので、村田の家族がここに入るには狭すぎた。 この頃、村田には二人の娘もでき、家族四人では同居ができない。 勝の長屋住まいは工場閉鎖の気兼ねからか出て行くつもりで居たから、新たに家を探さねばならなかった。 止む終えず、村田は家族を妻の実家に一時預かってもらう段取りをして、自分は四軒長家の工場に寝泊まりする ことにした。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   さて独立は果たしたが、工場の名前が気に入らない。便宜上「鈴木鉄工所」と付けていた名前を何にしようか? 所在地の荏原郡から取ることを考えるが、当時既に(株)荏原製作所が盛業中であり、「製作所」の語尾を付け たい二人には、この案は取れなかった。 当時、工場名に「製作所」と入れることが流行り、また信頼の高い事業所も多かったこともあり外せなかった。 では、と桐ヶ谷とすれば近所に火葬場があり印象が悪い。 思案した末、選んだのが「目黒」であった。目黒の街からはやや離れてはいるが、この周辺を「目黒」と称して 居たことと、河川や近所に在ったお不動さんも競馬場も「目黒」なのだし、これなら良いだろう・・・と。 ここに「目黒製作所」の創業をみたのである。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)