〜メグロの履歴室〜:メグロ躍進期(3)  昭和28年2月20日、この日開催された臨時株主総会に於いて、社長・村田延治、そして専務・鈴木高治は目黒製作所の 業績拡大に伴う資本金の見直しを提起し、大幅な増資を議決する。とは言え、村田・鈴木両氏による同族会社の色が濃い中、 増資の引き受けもまた親族によるものであった。そこで増資に先立ち引き受け手となる親族の役員登用がなされた。  新たに増員された取締役は2名。村田敏夫と鈴木滋治である。敏夫は製造部次長として既に重要な仕事に当たっていたが 後に烏山工場長を務めるなど重要なポストに当たるようになる。滋治は高治の子息であるが、メグロに加わった当初より 技術部にあってオートバイの開発に当たり、自ら開発に当たっていた村田社長や鈴木専務に替わり従来車種の改良から新たな 車種の開発へとメグロ技術陣の中心的存在になりつつある人物であった。後に昭和32年11月に開催される第二回浅間 火山レースに於いてセニアクラスを圧勝して征したレーサーマシンRZに搭載されていたDOHC・500cc機関は、彼の設計に よるものであった。  両名が役員として加わると共に前年より始めた増産奨励金制度の積立金より予定通り1/2相当額255万円を先ずは 増資の一部に当てて、株式は株主へ無償交付として締めた。  これを受けて、2月27日開催の取締役会では計画していた増資額1000万円の有償割り当てを決議。新資本金額は、 425万円に加えて1425万円となりオートバイ業界に於いて有数規模の企業に躍進することとなった。  更に6月30日、定期株主総会によって決算日を年二回から一回(3月末日)に変更することが決議され、10月28日の 取締役会では鈴木武雄を常務取締役に選任する。こうして目黒製作所は、延治・高治の両氏の実務を、確実に会社組織へ分担 する体制に整えていったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   一方、販売代理店組織「メグロ会」においては、昭和28年には以下のような異動が生じている。 ・「メグロ会」会員の動向(昭和28年)    (解約)                           (新設)    東京地区・・・・・・・・・・・・新井自動車(株)             山形地区・・・・・・・・・・・・後藤モータース    和歌山地区・・・・・・・・・・川口自動車(株)             宮城地区・・・・・・・・・・・・(株)宮城くろがね商会                                   福島地区・・・・・・・・・・・・(株)福島くろがね商会    (社名変更)                         東京地区・・・・・・・・・・・・(合)兵庫モータース    山梨・長野地区・・・・・・・トモエ自動車商会            和歌山地区・・・・・・・・・・・和歌山メグロ商会              →甲信メグロ自動車(株)    埼玉地区・・・・・・・・・・・・(株)三興自動車商会              →三興自動車(株)    (移動)    千葉・茨城地区・・・・・・・(株)千葉くろがね商会              ↓    千葉地区・・・・・・・・・・・・(株)千葉メグロ自動車商会    茨城地区・・・・・・・・・・・・(株)茨城メグロ自動車商会  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   「メグロ会」会長は、1月の総会に於いて東京地区総代理店の新井自動車(株)社長・新井進助氏が改選されて就いたのでは あるが、新井自動車が突如「メグロ会」を離れることになり、急遽9月に会長改選を行い替わって埼玉地区総代理店の三興自動 車(株)・塩野利治氏が務めることになった。  新井自動車の離脱は当時の熾烈な代理店獲得競争と、爆発的に売れるオートバイを自らメーカーとなってバイクを売り出す 野心家ディーラーの続出という世相の中では珍しいことではなかった。ただ新井自動車の場合は村田延治とも親好の深いあの 多田健蔵が身を置いていたのでメグロを取り扱うようになっていたのであったが、その多田が新井自動車を離れ、しかも自社 でアセンブリーながらオートバイ製造を企て、よりによってライバルのみづほ自動車から250cc機関を買って「進栄号」なる バイクの販売を始めることで、メグロの基を離れていったのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   この年はまた本社工場にも労働組合が結成されたのであった。前年末に烏山工場で起きた賞与額を巡る労使対立は本社工場 に於いても影響が懸念された。まずは経営陣との対話窓口となる組織を本社工場にも設けるべく東京本社従業労働組合の設立 を容認し、極力労使の融和をはかるべく経営側主導で組織されるのであった。再び同じような事態となる前に、11月29日の ことであった。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)