〜メグロの履歴室〜:メグロ躍進期(2)  昭和27年に入るとオートバイ業界は爆発的活況を見せ始める。前年6月の道路運送車両法制定により、同8月には道路 運送車両法施行規則によって2サイクル60cc以下及び4サイクル90cc以下の二輪車が「原動機付自転車」として新たに区分 されたことで、自動二輪車運転免許制度がこの年8月に改正となったのである。この時から原動機付自転車の運転には自動 二輪車運転免許が要らなくなり、警察への届出だけで運転ができるようになった。朝鮮特需により産業活動が復興したにも かかわらず、自動車など陸運インフラの整備がままならない中、簡易な運送車両を普及させようとの思惑が通産省や警察庁に あったのかもしれない。時同じくして、自動車普及の足枷となっていた燃料統制が事実上撤廃され、ガソリンが自由に購買 できるようになった。オートバイメーカーが爆発的に起業し、それに牽引されるかのように「目黒製作所」の業績も急激に上昇 を始めたのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   4月、500ccのZ2型を更に改良し、Z3型として発表、生産販売を始める。従来より頑丈さで評判のメグロではあったが より多くの積載にも耐え、かつ乗り心地と安定走行をとのユーザー要求に対し、社長・村田延治はすぐさま改良設計を決めて 答えたのある。これにより500ccZ型は機関改良により15馬力に出力向上、リア懸架部をリジッド(固定)式からプランジ ャー式緩衝器に改良し走行性能と積載荷重への対応とした。  更に8月には、250ccのJ2型を出力性能向上のためにG型・250cc単気筒OHV4サイクル機関のボアを65mmから70mm として288cc(300cc)化をはかり、J3型として発表、生産販売を開始する。J2型の生産は一旦終了させるが、ユーザー 要望によりJ3型ながら従来の250cc仕様も併売することになった。  同じく8月より、500ccを希望しながら価格的に購買できないユーザーへの対応として250ccとの中間クラスの新設 を決めて350ccオートバイの開発を始めている。  このように、メグロは販売網組織「メグロ会」によってもたらされるユーザーからの声を機敏に吸い上げ、次々と製品への 改良課題として間も置かずに新製品に反映させるという手法が奏して、この年の年間生産台数は、初めて一千台以上を記録し た前年をも大きく上回る3000台にも上っていた。       ・昭和27年々間生産台数記録          500cc:Z2・3型・・・・・・・1437台          300cc:J3型・・・・・・・・・・810台          250cc:J2型・・・・・・・・・・756台          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−                    生産台数合計・・・・・・・・・・・・3003台  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   その「メグロ会」において、昭和27年には以下のような異動が生じているが、全体としてはより全国にきめ細かい組織へと 充足している。 ・「メグロ会」会員の動向(昭和27年)    (解約)                           (新設)    高知・愛媛地区・・・・・・・野村工業(株)              滋賀・福井・広島・愛媛地区    兵庫地区・・・・・・・・・・・・(合)兵庫くろがね商会           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・中部くろがね販売(株)                                   高知地区・・・・・・・・・・・・(合)旭商会    (社名変更)                         島根地区・・・・・・・・・・・・(有)安全モーター商会    徳島地区・・・・・・・・・・・・(有)徳島メグロ商会           兵庫地区・・・・・・・・・・・・安川自動車(株)  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   このように著しい増産と効率的な生産体制の構築もあって、生産性の向上が観られた結果、単位時間当たりの生産台数が 増加した分、一台に掛かるコストが低下したことから従来の賃金制度では給与や下請けへの支払いが単位時間で目減りする 状況となった。そこで、これを補填する意味で一種の手当として、各月の生産台数×4500円を奨励基金としてプールして、 役員以外の社員給与総額がこの奨励基金額を下回る場合に、その差額の1/2を増産奨励金として分配する事とし、残りの 1/2は更なる生産性改善活動に向けて設備工具費として割り当てる事としたのである。  この制度の開始によって、基準給与額に対して約1〜2割の上乗せが可能となり、反対に残業や休日出勤は基準給与額の 押し上げとなるため、奨励基金額との差額が少なくなることから相対的に超過勤務を押さえる効果もあらわれた。  このような制度は、生産状況が好調で右肩上がりに上昇する一方であった当時のオートバイ業界に於いて成り得たことで、 後に業界内のシェア競争激化による価格低下や高性能化による開発費高騰が顕著になり、メグロの生産台数伸び率にも翳り が見えはじめた昭和34年頃になると制度の意味を為さなくなったことから自然消滅している。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   メグロの業績が順調な中、労使関係は村田社長らとの長い信頼関係もあって円滑な状況にはあったが、それは東京の本社 工場周辺に関してであったと言わざる得ない。メグロの再起を担った烏山工場は本社工場に次ぐ規模であったが、その従業員 は終戦後、復員してきた元兵員が主で、当時はどこの事業所もそうであったように、そのような人材の中には社会主義を主張 する者が多く、労働組合も殆どの企業に発足していたように、メグロでも例外では無かった。烏山工場には昭和21年の工場 再開と同じくして労働組合が発足していた。  ここまでは、最低限の仕事量は何とか確保しようとがんばってきた村田社長らの努力によって、労働組合との関係は比較的 円滑であったようであるが、メグロの業績が伸びてくると僅かながら開きのあった本社工場との待遇差が影響しはじめる。 昭和27年末、労働組合は賞与の増額を巡って村田社長ら経営陣と対峙、交渉は紛糾し遂に労働組合側は12月9日午後1時 よりストライキを実行したのであった。「目黒製作所」始まって以来の労使対立に、村田社長らは粘り強く交渉を続け、漸く 4日目に当初の経営側提案による賞与額で妥結、ストは解除された。  この事態に村田社長らは社員待遇により留意することになるが、後にこの労働組合がメグロの運命を決定づける事件を 引き起こすなどとは思いも及ばない事であった。                                                 (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)