〜メグロの履歴室〜:オートレース復活と「メグロ」(1)  昭和24年8月、戦前期に盛んであったオートレースを復活しようとする動きが大きくなり、日本小型自動車工業会や 読売新聞社により全日本モーターサイクル選手権大会が企画される。この開催にあたり、大会運営のため日本小型自動車 競走会が発足し、戦後最初の公式オートレースは11月に開催と決まった。そして「目黒製作所」社長・村田延治も理事と して準備に掛かったのである。  いよいよ11月6日、全日本モーターサイクル選手権大会は多摩川スピードウェイに於いて約3万人の観衆を集めて 始まった。レースは戦前期に開催された以上の規模で白熱したものであった。荒れたコースや寄せ集めた参加車の状態の 悪さでけが人も続出するが、オブザーバーとして参加した進駐軍チームによる模範レースも行われ、その後のレース運営 の手本となった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   このレースの成功により、継続的なオートレースの復活を望む意見が、参加選手、観衆共に沸き上がる。日本小型自動車 競走会は、日本のオートバイ技術向上にオートレースが寄与すると考え活動を継続することになる。当時の国産車がまだ 走るだけのもので、一方戦中からの僅かな期間に海外でのオートバイ技術は相当進化し、その性能差は歴然としていた。  戦前期のオートレースはその勝敗が目的であったが、オートバイの性能向上や品質の改善には資金が必要でありオート バイメーカーには重い負担となる。そこで先にギャンブルレースとして収益を上げ成功していた競輪を参考に、売上金の 一部を原資として運用してオートバイ開発の補助金とする考えを固める。  「目黒製作所」が加盟する日本小型自動車工業会の理事会はこの原案を小型自動車競走法として官庁に推進する決定を 決議し、小型自動車競走研究会が設置された。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和25年3月、オートレースは小型自動車競走法案として国会に上程され衆参議院で可決、5月に小型自動車競走法 として公布、施行された。小型自動車競走研究会は全国小型自動車競走会連合会に改まり、村田は東京都小型自動車競走会 理事の一人として、その後、昭和34年4月まで三期に渡りオートレースの振興に務めることになる。  村田は、オートレースを足がかりにオートバイの開発し、レースで勝利することで戦前のようにメグロをアピールする ことができると意気込んだ。そしてメグロに再帰していた日野文雄にオートレース参戦の準備を任せて、「メグロ号」Z型 を改造したレーサーマシンを完成させる。  10月、新装の船橋オートレース場で始まった法制後初のオートレースに挑んだZ型改レーサーはみごとに上位独占、 昭和26年7月の春季オートレース王決勝戦に於いては、  ・一着(ブラック)メグロ(レーサー:西方昭二)  ・二着(ホワイト)メグロ(レーサー:山中義治)  ・三着(ゴールド)メグロ(レーサー:松井藤雄) の各メグロレーサーによる勝敗となり一躍脚光を得るところとなる。 ところがレーサーマシンは選手持ちであるため、メグロ以外の多くは戦前期の外国車から改造してレーサーにしていた。 当初は国産車も数多く参加していたが、レーサーとは名ばかりの市販車が殆どで勝負にならないばかりか故障や事故を 多発させた。  燃料統制下でのオートレースではガソリンを使うことができず、燃料はベンゼンにアルコールを混合した代用品を使用 していた。また日常の代用燃料であった松根油を使うこともあり、直ぐに焼け付きやブリッジ(プラグの電極がカーボンで つながってしまう)によるエンストを起こしていた。選手の整備技量もあり、その後のオートレースから徐々に姿を消して しまい、メグロ(500cc・350cc)以外にはホンダ、ポインター(150cc)程度しか残らなかったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   日本のオートバイ技術向上に寄与することを目的としているオートレースでありながら、メグロ以外の国産車が参加 しないのでは復活したオートレースの意味が無くなると同時に、当時の記録では故障・落車率が27%にものぼり故障や 事故の多発によるレース内容の悪さが観客の失望を買ってしまいオートレースの存続も危ぶまれるようになった。  村田は孤軍奮闘するがメグロ一社ではどうしようもない。そこで日本小型自動車工業会を通じてレーサーマシン開発に は資金が必要との意見を通商産業省に上申。小型自動車競走法の趣旨にも反する状況を挽回するため通産省は補助金交付 と共にレーサーマシンの研究開発命令を国内の主要二輪車メーカーに対し出すのであった。   通商産業省による補助金交付額    750ccクラス・・・・・・・・・・・・95万円:陸王号(陸王内燃機)    500ccクラス・・・・・・・・・・・・95万円:メグロ号(目黒製作所)    500ccクラス・・・・・・・・・・・・95万円:キャブトン号(みづほ自動車製作所)    350ccクラス・・・・・・・・・・・・65万円:エーブ号(エーブモーター)    250ccクラス・・・・・・・・・・・・55万円:アサヒ号(宮田製作所)    150ccクラス・・・・・・・・・・・・55万円:昌和号(昌和製作所)  メグロには早々通商産業省より補助金交付とレーサーマシン開発指導が下されるのだが、交付を受けたメーカー6社中、 目黒製作所関連で3社が占めていた。そして、この資金によってレーサーマシン「ブルー・メグロ」が完成する。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         八重洲出版「Old−timer」No.76 より「戦前自動車競争史2」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著         日本小型自動車振興会編「オートレース三十年史」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)