〜メグロの履歴室〜:オートバイメーカー「目黒製作所」(5)  エーブモーターの成功により、社長・村田延治は小型オートバイが有望な市場になると考えを改め、メグロのオートバイ 製品として小型オートバイの新たな開発を企画する。  当時4種類あった二輪車区分(〜100cc・〜150cc・〜500cc・〜750cc)に加えて、排気容量250ccの小型オートバイ開発 を開始したのである。「Z型は確かに高性能で品質も良い、が高くて手が出ない。」と、代理店も顧客の意見を上げて軽二輪の ラインナップを強く持ち上げ始めていた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田はこの250ccオートバイ用機関の開発を、戦前より自動車開発で名声を得ていた蒔田鉄司に依嘱する。蒔田は 大正11年に、国産初の量産自動車となった「オートモ号」を設計、その後小型三輪自動車「ニューエラ号」の開発、国産四輪 駆動車(4WD)の「くろがね四駆」の開発を手掛けた人物で、当時日本内燃機製造(株)に在職していた。  メグロとの関わりは、蒔田が専務・鈴木高治と同じ静岡(島田)の出身で戦前期の小型三輪自動車向け部品などで同業者 であったことも有るだろうが、戦時期に日本内燃機からガソリンポンプの開発製造を依嘱されたことがきっかけでは無か っただろうか。蒔田はこの250cc機関の開発でもその天才ぶりを発揮し一晩で設計を完成させたという逸話が伝わっ ている。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和25年11月、メグロの小型オートバイ「J型」の試作が完成する。"J"とは「Z型の息子」の意図を込めて「ジュニア」 のアルファベットから採用した。そしてメグロとして初めてニックネームを付けて、同じく「ジュニア」と呼ばれた。村田は 完成度の高さを確認し直ぐに量産を開始、この翌年にはZ型を圧倒する総計800台以上の発売数を上げるまでになった。  排気容量250ccに設定したのは、単純にZ型の排気容量500ccを半分にしたと言うのだが、今でこそ一般的な 二輪車区分250ccの始まりはこの「J型」であった。その後メグロの小型オートバイ「ジュニア」は、メグロで最も売れる 主力製品として、メグロを支えて行くことになる。  こうして漸く「目黒製作所」のオートバイメーカーとしての基礎が固まり、その後の飛躍につながって行くのであった。                                                 (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著         日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)