〜メグロの履歴室〜:オートバイメーカー「目黒製作所」(2)  昭和24年、オートバイメーカーとして再スタートを切った「目黒製作所」ではあったが、厳しい業績状態は続いて いた。売り出した「メグロ号」Z型は戦前同様の仕様で当時としては高性能ではあるが、元々需要が見込めない自動二輪車 (大型オートバイ)である上、資材不足とインフレにより高額商品にならざる得なかった。生産台数も戦前期よりやや増え た程度で月産十数台の能力でしかない。判っていたとは言え思うように多くは売れず、売れたとしても一度に多くは造れ ない。ある程度需要が増加する目処が立てば設備も充実して増産できるのだが。  当時の「メグロ号」製造の様子を「月産十台が精一杯。フレームはロウ付け組立の上、まだ舗装道路が少ないから悪路でも 大丈夫なよう作らなきゃならない。マフラーも一本一本、砂を詰めて手曲げする。ラインなんか無くて全部勘で組み立てる から一台として同じに上がらない。歪んでいたりバランスが悪かったり実際乗って走らせてから判るので一台ずつ試運転 して調整していきました」と、後にフレーム製作会社の大和製作所社長となった、三浦一郎が後年回顧している。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   社長・村田延治は少しでも売れる客層を得るために、当時の主な需要であった警察などの官公庁向けとして側車付き (サイドカー)仕様を企画する。側車は需要に対して一番実績のあった「陸王号」のものを参考に開発し、「メグロ号」への 乗換を促進させようと試みてみるのであったが、結果は「陸王号」のブランドと信頼性に下らざる得なかった。  更に代理店の中からは「陸王号」に匹敵する1000ccクラスの大型オートバイ商品の開発を要望する声もあり検討 作業に入るが、これも量産に見合うだけの需要が見込めないとして取りやめる。  結局、側車付き仕様車は、その後翌25年にアメリカ軍部より、当時統治下にあった沖縄・琉球政府の警察パトロール用 として20台の受注を得て米ドルによる取引で納入される。メグロにとっては戦後初の輸出であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   その様な頃、漸く立ち直り始めた日本経済を揺るがす事態が起こる。深刻化するインフレを抑制するべくGHQによる 金融政策が強化されたのである。国内生産水準の落ち込みによる税収不足と、巨額の戦後賠償の支出により財政は極度に 窮乏していた。これに起因するインフレは戦前期(昭和10年)と比べて終戦時に3.5倍であったのがこの年には208 倍に達していた。それまでにも昭和21年にはデノミ的処置による新円への切り替え(市中の旧円を回収して新円へ交換 できる金額を制限した)により市中の通貨流通が冷え込み、一時的な効果が出たが直ぐにインフレが再燃していた。極度 の財政赤字がその要因であったが、その打開政策としてGHQは日本の財政改革を進めるべく、アメリカから招へいした ドッジ博士による政策勧告、いわゆる「ドッジライン」の実施で金融の引き締めが強められたのである。結果、多くの企業 が事業融資を受けられなくなり倒産するなど経営危機に陥っていったのである。  この冷や水のようなデフレ政策で、自動車業界においても大手のトヨタ自動車が倒産の危機に晒され、日産自動車も 賃金カットをきっかけとする労使紛争により混迷する中、「目黒製作所」も例外ではなかった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   「メグロ号」の販売網を取り仕切っていた全国総代理店・(株)神山商会が業績悪化のため倒産したのである。メグロに とっては売上代金の回収が出来ないばかりか神山商会が編成した各地総代理店を失う恐れがあった。 「このままでは連鎖倒産してしまう」村田は急遽「メグロ号」販売網の建て直しを練り、全国総代理店一社に全数卸す 全国総代理店制をやめて、神山商会が各地に持っていた都道府県単位総代理店各社と直接取り引きするよう改めた。  メグロ同様、連鎖倒産を恐れた総代理店各社では販売網組織「メグロ会」会員を中心にこの申し出を歓迎し、「メグロ号」 総代理店として再契約して引き継いでいった。そして改組「メグロ会」の会長には長野地区総代理店の信陽自動車(株) 社長・滝沢知足氏が就いたのである。 ・「メグロ号」販売総代理店組織「メグロ会」会員一覧(昭和24年)    北海道地区・・・・・・・・・・金子モータース商会           山梨地区・・・・・・・・・・・・トモエ自動車商事(株)    岩手地区・・・・・・・・・・・・藤健商会                静岡地区・・・・・・・・・・・・福井モータース    新潟地区・・・・・・・・・・・・青山自動車商会             愛知地区・・・・・・・・・・・・坪内商会    福島地区・・・・・・・・・・・・佐藤モータース商会           和歌山地区・・・・・・・・・・川口自動車(株)    長野地区・・・・・・・・・・・・信陽自動車(株)             京都・奈良地区・・・・・・服部モータース商会    群馬地区・・・・・・・・・・・・森島自動車工業(有)           大阪地区・・・・・・・・・・・・安川自動車(株)    埼玉地区・・・・・・・・・・・・(株)三共自動車商会           兵庫地区・・・・・・・・・・・・(合)兵庫くろがね商会    東京地区・・・・・・・・・・・・新井自動車(株)             岡山地区・・・・・・・・・・・・三好モーター商会        ・・・・・・・・・・・・(合)福田モータース商会         愛媛地区・・・・・・・・・・・・四国小型内燃機(株)        ・・・・・・・・・・・・サン自動車サービスステーション     九州地区・・・・・・・・・・・・藤壺モータース商会    神奈川地区・・・・・・・・・・横浜安全自動車(株)                                                 (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著 日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著         あすか書房「日本のヴィンテージバイク」より「“メグロマーク”の消えるまで」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)