〜メグロの履歴室〜:目黒製作所創業まで(2)  大正10年、友野鉄工所の経営者、友野直二に、伯爵、勝精(かつ・くわし)からある申し出があった。 勝伯爵とは、明治維新の功労者、勝海舟の養子で在りその実は最期の将軍、徳川慶喜の末子である。 既に元号は大正に変わり、伯爵の位は貴族院の議員に名を出す他は、事業を興したり、持て余す時間と財産を基に 道楽に浸るようであった。 勝も事業の傍ら道楽に船舶(モーターボートのようなものか)や輸入されだしたばかりのモーターサイクルなどを 乗り回して居た。 そのような中で船舶機関の第一人者であった友野とは親交が深かったので在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   勝の申し出とは、赤坂氷川町の邸宅内に内燃機関の製造所を建てエンジンや部品を作りたいというもので在った。 さりとて、伯爵自身が機械工に成るわけにもゆかず、友野が兼業するほどの余裕も無い。 それでは、他に誰か友野が推薦してもらえないだろうか、と云うことで在った。  友野はこの申し出に協力して起業の段取りを約束し、勝は資金面でこれを面倒する事となる。 「さて、誰にこの仕事を任せたら良いか?」友野に浮かんだのは村田延治で在った。 村田は所帯を勝が家主で在る長屋に借りて置いて居た。 おそらくお互いを知って居たで在ろうし、友野の下での7年間を視て仕事も人となりも適任ではないかと考えた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  大正11年6月、村田は「村田鉄工所」の経営者として独立した。 とは云え、実際は友野の下から、実質的オーナーである勝の下に移ったようなもので、村田本人の意思による独立 とは云えなかった。 しかし勝は遊びのためだけで鉄工所を開かせた訳でもなく、経営者としての働きを村田に託したので在る。  早速、勝の資本によって数人の従業員を募集したので在るが、このとき応募して来たうちのひとりが、後に村田 の片腕として支えていくことになる人物、鈴木高治で在った。 鈴木は明治29年3月2日静岡県沼津市に生まれる。 村田の下を訪れるまでは日本最初の近代造船の拠点で在った旧海軍の浦賀ドックに軍人技師として勤め、特に旋盤 の技術では定評が在ったと云う。そして計算術にも長けて居た。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  村田は、鈴木を入れて5〜6人の工員によって営業を開始した。 別に勝が仕事を集めてくる訳でもなく、営業活動は村田たちが行いながら仕事を得なければならなかったので在る。 営業活動は村田が奉公などで体得して居たので、外に仕事を探しに行く。 だが、仕事の監督管理に専念ができない。 数字に強く、機械加工の技術も得ていた鈴木が、村田に代わって工場内を切り盛りすると云う体制が自然と出来た。 この時にできた信頼関係が、メグロ創業のきっかけとなったことは云うまでもない。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  「村田鉄工所」としての活動は細々としたもので在った。 固定的な注文は無く、金属部品の製造加工、機械の修理など、ほとんど便利屋のような仕事で在った。 自動車関連の仕事も在ったが、当時の自動車はほぼ100%輸入で在り、その部品も国産では無かった。 友野の下で身につけた内燃機関に関する技術を活かして、部品の製造も手掛けるようになった。  そのような仕事のひとつに、大正12年に製作した60ccクラスの2サイクル機関の注文が在った。 依頼元は武蔵野工業合資会社で、ペダル始動のバイク用として、200ccと60ccのクラスを販売した。 200cc用のエンジンは武蔵野工業が外国のライセンスを得て製作したが、60cc用の製作を村田に注文した ので在る。 この時のことを村田は、 「シリンダが鋳込めないから、鋼管パイプに鉄板を張って穴を抜いてシリンダにしたが、冷却が悪かった。 売るには売ったが、坂道ではペダルを夢中になって踏まなければ登れない様だった。」と、回想している。 約100台分の注文で在ったと云う。  この頃、勝はいよいよ「村田鉄工所」の本来の目的である内燃機関の開発を試みようと動き出した。 モーターサイクルの国産化を決意したので在った。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  大正12年は関東大震災の被害が在り、経営的には苦しかったと思われるが、村田や勝自身には打撃的な影響が 無かったと見えこの年よりハーレーダビッドソンをモデルとした1200ccクラスのSVエンジンの開発に乗り 出した。  勝は自身に加えて渋沢正雄、浅野良三の2実業家に出資を持ち掛け、当時で3万円という巨額の資本を投入した。 村田は前年に実家より六つ年下の弟、浅吉を呼び寄せて本格的に国産ハーレーの試作に入り翌大正13年、試作車 3台を完成させた。 勝たちはこの試作車に「ヂャイアント号」と名付ける。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  試作車は完成した。 しかしその性能は惨憺たるもので在った。 なかなか始動しないエンジンに、仕方なく坂道で押し上げて下りで始動させた。 それでも折角に動き出したエンジンは直ぐに止まった。焼け付くのだった。 他にも具合の悪くなる箇所が際限なく出てくる始末で勝そして村田たちは焦りと失望に実用化への期待を喪失して 云った。  結局、この「ヂャイアント号」は実用に向かない、もし満足のいくよう改良しようとすれば何倍もの資金が必要 となると判断した。 さすがの勝も、このまま開発を継続することはできないと考え、造られた試作車3台は当時めずらしかった自動車 学校に教材として寄贈され、数々の開発資料を残し、終わった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  村田の生活は「村田鉄工所」の経営者になってからも苦しいままであった。 むしろ、友野の下に居た頃以上に窮するようになって居た。 今までは家族の家計さえ面倒すれば良かったものが、今はたとえ名目上とはいえ経営者で在る。 従業員たち、そしてその家族の家計もまた村田の肩にかかって居た。月々の支払いと従業員たちへの給与を払った 残りが村田家の収入。 しかし、支払いの終わった後に自分の貰い分が残らない時の方が多かったので在る。  「自分は経営者では在る。しかし支配人は勝伯爵であり、自分の思い通りに事業を動かすことはできない・・・」 村田はいっそ、ここから離れて新たに独立して自身による工場が欲しい、と考えるようになって居た。 村田は思い切ってこの考えを鈴木高治にうち明けてみた。 この頃の鈴木は「村田鉄工所」に無くては成らない人材で在り、村田は鈴木を共同経営者のように大事にして居た ので在る。  鈴木も考えは同じで在った。 このままでは、何も良くはならない。「ヂャイアント号」の失敗は、勝のオーナーとしての意欲を失意させて居る。 二人は新たな独立のため、程なく行動を始めるのだった。                                               (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)