〜メグロの履歴室〜:オートバイメーカー「目黒製作所」(1)  昭和23年5月、準備を進めていたオートバイ製造の設備が整い、「目黒製作所」による戦後市販車の一号車が完成 した。「メグロ号」500cc・Z型である。車名はあえて戦前期に生産したZ98型から復活してZ型とし、仕様の 殆どもそのまま。一部部品は戦前期より戦災を逃れて残してきたZ98型用部品がそのまま使われて不足の部分は設備 が整った烏山工場や子会社の昭和機械製作所で生産が開始されたのだ。その烏山工場は、メグロにとって重要な事業所と して本社より重役・阿部理八が工場長として就任する。  「目黒製作所」にはもう一人、復興を支える人物が復帰していた。日野文雄である。日野は戦前「メグロ号」の完成 を前にしてメグロから離れて三国商工でキャブレターの開発に従事していたが、終戦で職を失い疎開先・仙台で自動車 修理店を生業と始めるも成り立たず居たところを「目黒製作所」社長・村田延治によってオートバイメーカー・メグロ の復興に必要な人材として迎え入れられたのである。  村田は、Z型に「目黒製作所」の社業はこれしかないとの決意を込めていよいよ「目黒製作所」はオートバイメーカー として活動を始めるのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田はメグロをオートバイ専業会社とするためには販売ルートの強化が重要であると認識していた。それは戦前期、 「メグロ号」への期待と評判に反して思うようには実績が上げられず、同規模でありながら「キャブトン号」に販売実 績で大きく差を付けられたことを反省してのことである。オートバイが本業となった以上、同じ過ちは踏まないと村田 は販売代理店の整備に掛かった。それは全国総代理店を置いてそこに一括全数を卸し、以下に各都道府県単位の代理店 を配置して総代理店窓口とするもので販売店も兼ねる。全国総代理店にはかねてより自動車部品販売や戦前期のオート レースで密接にしていた(株)神山商会が当たることになり、各都道府県単位の代理店には神山商会の各地総代理店が当 たることになった。  村田は製造以上に販売の重要性を示し、販売網の組織化を考え「メグロ会」という各地総代理店による販売店組織を 結成する。そして会長には各地総代理店の代表として、北海道地区担当の金子モータース商会社長・金子清一氏が就任 した。  村田は更にオートバイの需要を増やすには産業の振興が欠かせないと考え、「メグロ号」だけではなく他のオートバイ メーカーとも連携して資材・燃料・交通法令など各種規制の緩和や支援を政府へ働きかけるべく、戦前・戦中に組織された 二輪・三輪のメーカーによる日本小型自動車団体(日本小型自動車組合・日本小型自動車販売組合)を再編し、日本小型 自動車工業会として創設に関わり、各社オートバイメーカーと共に輸出産業展示会などで積極的に宣伝したのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   ところが終戦後のGHQによる占領政策が陰を落とす。業界市場規模に対して、一定規模以上を有する企業に制限を 課す、いわゆる独占禁止法の施行により「目黒製作所」に対し村田や専務・鈴木高治が重役として参加していた沼津の 昌和製作所からのメグロ関係者の退任を迫られたのである。昌和製作所は当時、実質的にメグロの一工場として活動して 自動車部品の製造と、オートバイ製造の再起に向けた試作車の製作などを始めていた。  突然の命令であったが一企業がどうすることも出来ず結局、村田と鈴木は昌和製作所を去ることになった。工場長に 務めていた鈴木の従兄弟・鈴木武雄は後任者がいないこともあって昌和製作所に残りメグロからは離れるが、後に昌和 製作所のオーナー・小島家による事業引き継ぎが成った昭和25年、ようやくメグロに帰任する。  新生・昌和製作所は各地から優秀な人材を集め、技術開発を積極的に進める目立つオートバイメーカーとして知られ るようになり、その成果は参加したオートバイラリーやレースでの優秀な成績で裏付けられていった。そして製品にも 斬新な機構やデザインを盛り込み話題になることも多く昭和20年代後半にはクルーザーシリーズで絶頂期を迎える。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   その一方で占領下需要により駐留していた進駐軍人たちの自家用オートバイとして「メグロ号」注文の知らせが届く。 当時は外貨に対する規制が厳しく直接取引ができず注文を介した日本政府特別調達庁へ納入、PX(進駐軍専用売店) で販売された。この時「メグロ号」を知ったある在留米人実業家がメグロに事業の協力を持ち掛けてきたのである。  内容は、日本で評判になり始めつつあるスクーターを共同事業で製造しようという商談であった。この米人実業家は おそらく、日本でのスクーター流行の兆しにアメリカブランドの車をメグロでノックダウン製造するつもりであったの かもしれない。が、占領下の規制に阻まれてか結局実現には至らなかった。歴史上で「もしも」は禁物であるが、メグロが スクーターメーカーとして発展していたらその後の状況は大きく異なっていたであろう。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著 日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)