〜メグロの履歴室〜:メグロ復興期(3)  終戦後すぐにオートバイ製造を始めたのは、工場への戦災がそれほどでもなかった陸王内燃機と、「アサヒ号」の宮田 製作所であった。そして自転車バイク「ビスモーター」から事業再開していたみづほ自動車製作所も、程なく戦前造って いたオートバイ「キャブトン号」の部品を使って組み立てたオートバイを「みづほ号」として発売しようとしていた。  これら先行メーカーの業績は決してはかばかしいものではなかった。陸王内燃機は警察庁への白バイなど、官公庁需要 が主であり市販は殆どなかった。宮田製作所も主力は本業の自転車製造に置いていた。みづほ自動車製作所は「ビスモー ター」で赤字が膨らみ自転車バイクからの撤退を余儀なくされオートバイによる再起に懸けたところであった。  一方、新しい乗り物・スクーターは一部の裕福な人たちの足として重宝されはじめ、都市部では今の自家用車のような 使われ方で売上を伸ばしていた。GHQからは玩具として一時規制の兆しもあったが、規制外の二輪車であるとメーカー や販売店などの陳情で免れたことにより、生産は月数百台に上り二輪車生産台数の大半を占める勢いであった。  自転車バイクも近隣運搬用として人気を得るようになるが、これら小型二輪車にしても高額で、庶民が簡単に使うまで には程遠い状況にあった。ましてオートバイは白バイか軍用車、あるいは趣味性の乗り物という戦前のイメージが強く、 まだ個人が使う時代ではなかった。オートバイは特別な乗り物としてそれほどの需要にはなっていなかったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   戦前期にオートバイを造っていたメグロではあるが、先行する陸王内燃機や宮田製作所、そしてみづほ自動車製作所の 業績状況や、GHQによる燃料統制やインフレなど社会情勢要因が「目黒製作所」社長・村田延治にオートバイ製造を思い 留めさせていた。メグロのオートバイメーカーとしての知名度は低く戦前期の実績も小さい。オートバイ製造を再開する のは無謀であった。しかし低迷する自動車部品事業だけではもはや「目黒製作所」は維持できなくなっていた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和22年、村田は自動車部品事業に見切りを付けてオートバイ製造を事業の主力に「目黒製作所」を復興すること を決意して役員会の了承を得る。GHQによる燃料統制がこの年2月に緩和(「石油配給統制規則」の廃止)されたことも 判断要因ではあった。ただあらゆる状況を考えてもまだ時期尚早である。世の中が欲していたのはオートバイではなく 輸送手段としての荷物車、あるいはガソリン統制下では自転車のような交通手段であった。が、自動車部品だけでは成り 立たない以上、メグロとして売り出せる商品はオートバイであった。  村田には確信があった。自動車産業の復興には時間もコストも掛かり自動車が直ぐに普及するのは難しい。オートバイ なら自動車ほど高価ではなく自転車よりは運搬に適しているのだからそのうちに需要が出て市場が拡大するに違いない。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田らは早々オートバイ製造の準備に取り掛かる。烏山工場や設備疎開していた五日市、沼津の昌和製作所にあった 戦前オートバイ製造に使っていた設備を整備、戦災でバラックの仮設社屋しかなかった東京工場跡を整地して、新たに オートバイ製造工場として建設を開始する。そして疎開先に残して置くことができた戦前のオートバイ部品も活用する ことにして、不足の部品は烏山工場(トランスミッション及び車体部品)、子会社の昭和機械製作所(エンジン)で製造する 準備を整えた。ここに「目黒製作所」はオートバイメーカーとして新たなスタートを切ったのであった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著 日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著         石油連盟資料「戦後石油統計」1981年11月刊  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)