〜メグロの履歴室〜:メグロ復興期(2)  昭和22年、日本国内は終戦の混乱から漸く落ち着きを見せ始めてはいた。産業も民需から徐々に復興が拡大し生活 物資もまだ不足状態にはあったが市場に出てくるようにはなった。しかし軍需専業であった重工業を中心に連合国司令部 (GHQ)による財閥解体と民需転換命令によってその回復はままならず民需への転換が急務であった。  かつては戦艦や重火器の装甲を製作するために使われた大型プレス機で残存していた材料の鉄板やジュラルミンで鍋 や弁当箱を造る有様。それでもまだモノ造りができて人材を働かせることができるだけましであった。その様な中、軍需 企業であった中島航空機と三菱重工業は、終戦で使われることの無くなった航空機部品から、需要の高まっていた庶民 の足を造ることを始める。その一つが自転車である。いまだエネルギーインフラは復興途上で停電は当たり前。自動車 も配給のガソリンでは自由に走らせることもできない中、自転車は唯一の自家用交通であった。三菱は当時残っていた ジュラルミンを使って自転車「十字号」を製造する。  続いて作られ始めたのがまだ日本では馴染みのなかった乗り物・スクーターであった。中島は富士産業と名を変えて 残っていた航空機の尾輪タイヤを活用するという方法でフレームとエンジンは当時進駐していた米兵が乗り回していた スクーターを参考に開発、スクーター「ラビット号」として市場に出した。  財閥解体により三菱から分かれた中日本重工業も、同じようにスクーターに注目。戦時中に唯一国内に持ち込まれて いた米国製スクーターを探し出し国産化したのである。これに「シルバービジョン」(銀鳩)と名付けて売り出した。 後に日本の2大スクーターブランドとなるこれらのスクーターは終戦により生まれることができたのである。軍需専業 であった重工業メーカーが民需へ転換する手段としてこのような小型自動車産業に注目したのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   一方、名古屋では新しい動きが他にもあった。自転車でもあるだけましなのだが、車ほどは速くもなく、坂道や重荷 では難儀する。もっと楽に速く走れないものか・・・、その様な潜在的要求をいち早く見いだし製品化された乗り物が 自転車にエンジンを付けたバイク「原動機付き自転車」である。  いち早く見いだし製品化したのが、戦前よりオートバイ「キャブトン号」のメーカーとして活動していた、みづほ 自動車製作所であった。社長の内藤正一は終戦後すぐオートバイ製造により復興することを決意し身近な物資を集めて 活動を始める。彼に戦前、自動車産業に関わるきっかけをつくった事業家・川真田和汪より持ち掛けられて、自転車に エンジンを付けて走らせることを考え出した。「ビスモーター」と名付けて売り出した自転車バイクはたちまち世間に 広まったのである。  やや遅れて、川真田は事業を拡大させるため、当時世話になっていた豊田自動車から資本を借り「トヨモーター」と 名付けて販売を始めて評判となり、一時は中京地域でオートバイの代名詞にもなった。  同じ頃、近く浜松でも一人の発明家が自転車にエンジンを載せることを思いつく。発明家は本田宗一郎。彼は知り合 いから旧陸軍が使っていた無線機用小型発電機を見せられ何かに利用できないか思案していたのであるが日頃買い出し に自転車を苦労して使っていた妻を少しでも楽にさせたいと考えついたのであった。試しにあり合わせの自転車に持ち 合わせの発電機エンジンを載せ売ったところが評判となったのである。本田は半ばボランティアで採算を考えずに造っ たが、造れば直ぐに売り切れることから事業化を決意し本田技術研究所を設立、ここにホンダがスタートする。  しかし実体は中古も含めた市販自転車と、これまた事業再開した旧軍需専業メーカーより小型エンジンの供給を受け て組み付けるだけというもので、燃料となるガソリンは未だ配給であり闇燃料は高額であった。人々はこのエンジン付 きの自転車に松根油(松の根を絞って精製した粗悪油)を入れて騙しだまし走らせた。  いわゆる原動機付き自転車はこうして似たような発想から各地で起こり、燃料統制が解除された昭和27年以降には 100〜200社もの原付きメーカーが誕生するが、月産5台以下の「5台メーカー」がその大半ではあった。  「原付」の名はここから生まれ、登録区分「原動機付き自転車」と共に名称が今に残っているだけではある。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   さて「目黒製作所」では相変わらず小型三輪自動車「オリエント号」向けの部品以外に事業の拡大が計れずにあった。 自動車産業は少しづつ復興しているのであるが、戦前のように部品では注文が取れなくなっていたのである。 「簡単な自動車部品は内製する所が多くなってきている。修理用に出しても数が知れるし、このまま部品専業では事業 は難しい」村田延治らは自動車部品以外に活路を見いだせないか苦悩していた。  村田の願いは戦前のようにオートバイ事業を再開したいという思いであった。オートバイはGHQによる統制からは 外れて、いつでも始められる事業であった。しかし肝心なことに燃料が未だ統制解除されず、自転車バイクやスクーター のように少ない燃料で手軽に使える乗り物ではないこともあって、オートバイの需要は未だ小さいと村田は感じていた。 その上、復興途上による慢性的な産業資材不足の中、不急製品であるオートバイ産業への物資配給は限られた。  そのような世情もあって村田はオートバイ製造の再開を思い留めていたのであるが程なく「目黒製作所」の事業として オートバイを始める決意を固めるのであった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著 日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著         石油連盟資料「戦後石油統計」1981年11月刊  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)