〜メグロの履歴室〜:メグロ復興期(1)  昭和20年8月15日、終戦。「目黒製作所」にとって決して少なくない戦争被災状況ではあったが、村田延治らの 努力によって栃木県烏山町などへの工場疎開により、事業継続に必要な生産設備の損失は少なく、戦前期に生産して いた小型自動車用部品やオートバイ「メグロ号」の部品まで残すことができた。  しかし終戦は「目黒製作所」にとって、生産活動の停止を意味していたのである。終戦以前、既に生産活動は物資の 不足や輸送力の低下によって停滞し殆ど休止状態にあったのであるが、終戦により戦時下に生産していた製品のすべて が軍需品目であった為、完全に活動を停止せざる得なかったのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   生産活動を停止させた村田は断腸の思いで大切な従業員を解雇し、事業所の存続に必要な役員と残務整理に従事する 社員20名あまりを残して、「目黒製作所」再起の機会を待つことになった。被害の殆ど無かった烏山工場は閉鎖され その一部は進駐してきたアメリカ軍の宿舎として接収されてしまう。  村田はとにかく生産活動の再開に向けて、戦前期に生産していた小型自動車用部品の製造販売に掛かろうとするので あったが、終戦状況がそれを許さなかった。戦時中の軍需生産協力事業所として進駐軍から生産内容に制限が掛けられ、 その上、向け先の小型自動車産業自体が壊滅しており、生産活動の再開は目処が立たないまま半年間の長い沈黙を余儀 なくされる。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   翌年に入り、明るい兆しが見える。自動車産業の規制が緩和され、トラックを主とした産業用車両の生産が再開され だしたのである。混迷する国内の産業も細々と動き始め、生産活動に必要な物資が出てくるようになってきたのである が、それら物資の運搬手段が不足していた。進駐軍も占領政策に影響しない程度の自動車産業再開を認め小型三輪自動 車等の製造も再開できるようになった。  昭和21年2月、村田は戦前の伝を頼って方々の小型自動車メーカーに商談を持ち掛けた末、ようやく一つの仕事を 受けることになる。客先は新たに小型三輪自動車「オリエント号」の製造を始めた東洋精機であった。東洋精機は部品 の調達先として「目黒製作所」に得意とする変速機を発注したのである。  村田らは早速、閉鎖していた烏山工場を開け、残していた生産設備を整備。その後三年間続くこの生産を開始した。 メグロの復興はここからスタートしたのである。しかし続く商談の多くは芳しくないもので受注につながる話は殆ど なかった。「目黒製作所」が得意先としていた戦前の小型三輪自動車メーカーは、弱小であったこともありその多くは 戦後の再興ができていなかったのである。  戦後活動を始めた小型自動車メーカーの多くが戦時中に軍需産業として従事していた企業であり、平和産業への転換 分野として製造が容易で参入し易い小型三輪自動車を選んでいた。これら新参メーカーは自社内の仕事量を確保するた めメグロが得意とするような部品を内製化したのである。終戦で戦地や入植していた外地からの引揚者が町中に溢れだ し、失業者が仕事を求めてさまよっていた。多くの事業所は思うように生産活動ができないためこれら労働者を受け入 れることができず、自社内で造れるモノはなんでもやらなければ従業員すら賄いきれなかったのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   戦後のスタートを切ったメグロであったが、その後オートバイメーカーとして再興するまでの間、メグロにとっては 過去にない最も厳しい状況に、耐えるしか術がなかったのである。  (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」 日本経済評論社「日本の自動車産業」四宮正親・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)