〜メグロの履歴室〜:戦時下の活動(1)  昭和16年1月、徐々に力を付けて海外製品に対抗できるようになった企業により、国産機械および工業製品の 宣伝紹介と売り込みを兼ねて、オランダ領東インド(現インドネシア)へ向けて視察団が神戸港より出発した。その 参加企業には「目黒製作所」も加わっていたのである。  「目黒製作所」は国産の市販オートバイ「メグロ号」Z98の海外輸出を企てようと村田延治自らが参加していた。 当時の東南アジアは欧米列強国による植民地であり、輸出はそれら植民地に滞在する欧米人に向けるつもりであった。 オートバイが買える所得層が限られる国内より、オートバイが文化として根付いた欧米人の、それも植民地で利権を 持つ富裕層の多い東南アジアなら、「メグロ号」は売れると感じていたのであろうか。  村田はZ98を一台持ち込んで現地で走行しながら宣伝活動を行い反響を得たのである。輸出事業の成功を確信した 村田であったが、時局の急変がこの好機を許さなかった。この年12月、対米英開戦となってこの計画は実現には至ら なかったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   国内では既に時局の悪化から戦時体制が敷かれ、ガソリンなど燃料、鉄・アルミなど鉱石資源は統制物資とされた。 このため自動車産業は軍需以外は統制下に置かれて、造ることも走らせることも自由にできなくなってしまったので ある。「目黒製作所」も製品のほとんどが自動車関連であったため、急ぎ軍需関連の受注を増やし、営業・生産品目の 軍需転換をはかった。これにより、市販オートバイ「メグロ号」と、昌和製作所による小型オートバイの生産は中止と なって、ここに戦前期のオートバイ事業は中断となった。  代わって主力製品として生産されたのが航空機部品であった。とりわけポンプなどのギヤ関連部品の下請け加工に 注力するようになった。軍需の拡大により仕事量は民需専業時に比べ格段に増加し、この頃従業員は120名を数える 規模になっていたのである。   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   対米英開戦後の製品としては軍用の機関部品が主力となったが、中でもガソリン機関に関する部品には軍部から優秀 とされた部品がいくつかあった。とりわけギヤを主とした製品がそうであったが、海軍の飛行艇に搭載の燃料積込用の ガソリンポンプなどは、元請けの日本内燃機では自社製品にガソリン漏れの不具合を生じ「目黒製作所」にその対策を 依嘱されたことからこれを試作。これが好成績となり、以後約300台が日本内燃機に納入された。その他にも、海軍 航空兵器総局からという軍部の直接発注による小型船艇用機関の開発などがあった。  昭和17年に入ってからは、拡大を続ける軍需に対応するため急ぎ増資(30.5万円)を決め、工場設備の増強を 実施する。これにより翌年、「目黒製作所」の資本金は50万円になった。   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田は「目黒製作所」の工場設備ではもはやまかない切れないと感じ、工場の新設を企てる。が、ここは堅実な村田 のこと。近隣に所在する機械工場に「目黒製作所」への参加を持ち掛けたのである。この商談に乗ったのが隣接の当時 大森区にあった機械工場「田中工具製作所」であった。村田は工場の買収後、目黒製作所大森工場として活動を開始、 工場長としては目黒製作所の取締役に就任していた佐野延義を充てた。  「田中工具製作所」は敷地売却利益を基に千葉県へ移転。戦後はバイク用エンジン外販メーカー「田中工業」として 昭和27年より「タスモーター」のブランドで2スト小型バイクの製造販売を始めて人気を得た。昭和35年でバイク 製造からは撤退したが、以降も汎用エンジンメーカーとしてバイク用にも外販されて、今なお盛業で在る。   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   更に村田は拡大する戦況によって帝都空襲の恐れに対応することも必要と考え工場の疎開を検討する。このとき候補 に上がった疎開先が村田の郷里にも近い栃木県烏山地区であった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)