〜メグロの履歴室〜:株式会社「目黒製作所」  昭和13年、「目黒製作所」は国産の市販オートバイ「メグロ号」Z97を前年から量産開始して好評を得ていた。 そこで村田延治と鈴木高治は早々改良型として「Z98」を発表する。改良の内容は操作性の向上などで大きな変更は 行われなかったが、新たに600ccクラスを用意し需要に応えようとした。  さて本業の自動車用部品も好調で、小型三輪自動車需要に支えられ業績を上げていった。そこへ戦前期における二つ の大きな仕事が入る。一つは、村田がかつて世話になった友野鉄工所からのもの、そして一つは、「メグロ号」による 成功をきっかけとした仕事であった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   友野鉄工所はこの頃東京・芝浦に場所を移して、産業用動力機関の製造を主としていた。仕事とはその様な製品の 中でも主力の発電機用機関の製造であった。水冷直列4気筒4サイクル機関で軍部向け3kw発電機用である。 友野鉄工所は「目黒製作所」の実績を買ってこの重要な仕事を村田たちに依頼する。完成した機関は信頼性が高い仕様 であったことから高評価を得て、以降3年間にわたって受注することになり、後に戦時下の軍需工場指定の足掛かりと なる。  一方、村田らの元に、大阪で貿易商を営むという昌和洋行の小島和三郎という人物から、「うちから大陸にバイクを 輸出して売り込みたいが、こちらで造れないだろうか」と依嘱があり、早々検討に入った。条件は、100cc程度の 2サイクル機関オートバイを開発込みで受けるというものである。村田らは規模拡大と大陸への進出を期待できると考え この商談を受け、早速試作に取り掛かったのであった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和14年、昌和洋行より依嘱の試作バイクが完成、小島は待ちかねたようにその試作車をためす間もなく、この バイクの量産計画を画策し実行した。すなわち(株)昌和製作所の創設である。小島は昌和製作所に「目黒製作所」の ノウハウをそのまま依嘱するために村田と鈴木を取締役として参加させてオートバイ製造の一切を任せることにして、 自らは販売に専念することにしたのである。そこで村田は製造工場を鈴木の出身地である静岡県沼津市の郊外に建設し 責任者として鈴木の甥で目黒製作所に勤務していた鈴木武雄を工場長に出向させた。  昌和製作所は後に戦後は自社開発のバイクにより隆盛を極めるが競争激化の中、目黒製作所より早く整理されること になる。ヤマハ発動機の傘下入りしてのち、ヤマハの協力会社として今なお盛業(現 創輝(株))であるが、実は その起源には「目黒製作所」があり、その経営はメグロの系列下にあったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   このような「目黒製作所」創業以来の活況の中、村田は会社を自らの私企業としての立場に置くことは道義上許され ないと考え、会社法人として組織し直すことを決意する。株式会社「目黒製作所」の創立であった。  昭和14年2月11日、村田は創立総会を開催し以下内容において議決する。 ・資本金:19.5万円(既に全額出資済み)     *20万円としなかったのは当時の戦時立法による規制を避けるためであった。 ・決算日:3月末日および9月末日の年2回 ・取引銀行:第百銀行 大崎支店 ・役員:代表取締役社長 村田延治     代表取締役専務 鈴木高治     *以上、取締役会にて議決     取締役 後藤末五郎      同  阿部理八     *阿部は6月30日の臨時株主総会により取締役の一名増員議決で選任、後にエーブモーターを創業する。     監査役 堅川来吉      同  浜井次郎  晴れて株式会社となった目黒製作所ではあるが、その期待とは裏腹に時代はもはや戦時下の闇に向かいつつあった。   (つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         三樹書房「日本のオートバイの歴史」富塚清・著  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)