〜メグロの履歴室〜:メグロ号誕生(2)  昭和10年暮れ、国産の市販オートバイ「メグロ号」の開発は順調に進む。機関はレーサーマシンでも実績を出した 自社開発のMAGタイプ4サイクル単気筒498ccOHVガソリンエンジン、変速機も「メグロ」ギヤーボックス で問題ない。ここでも難関はフレームであった。まずレーサーマシンと市販オートバイでは使い方も乗り方も走り方も 違うのである。レーサーマシンは軽いこと、そして自重とレーサー一人を支えて安定した走りができることが主である。 対して市販オートバイに求められるのはともかく丈夫で少々の荷物を積んでも壊れない。スピードはともかく悪路での 走行に安定して対応できること、など。しかしこのような条件上の違いは案外共通点でもあって、最終的に決めかねて いたのは見た目であった。機関と変速機の構成からはどうしても英国車を参考にせざる得ないがノートンやトライアンフ のフレームでは何ら特徴がない。とは言えBSAやマチレスの前傾エンジンのフレームでは無理がある。そこでレーサー マシンとしても活躍する英国サンビーム社のフレームで決めようとした矢先、一台の英国車が輸入されてきた。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   それは東京・日本橋に店を構えていた多田建蔵商店に英国からベロセ社の「ベロセット」KSSモデルが入荷したこと が伝えられたからである。店主の多田建蔵は日本のモータースポーツ史における最大功績者であることは言うまでもない。 多田は明治期から各地で興行されていた自転車レースに参戦、「目黒製作所」にも関わり深い丸石商会の前身・石川商会 の自転車レースチームで活躍、このとき奇しくも後のモーター商会・小宮山長蔵の元に弟子入り後大正10年まで自転車 レースを続けた。しかし多田を最たる功績に押し上げたのは、この後はじめたオートレースに他ならない。自転車レース の才能を生かして丸石商会との縁からトライアンフで歴戦、次々と好成績を上げて東京を代表する選手として各地で活躍 していた。この時期に村田延治との親好があったようである。  多田とベロセ社の関わりは取りも直さず昭和5年春、多田がオートレースにその頃使っていたレーサーマシンが「ベロ セット」であったことで、好成績の活躍によりマン島TTレースへの参加招待を受けたことによる。この日本人初の国際 オートレース参加と上位入賞の結果が多田を功績者にしたのである。  「ベロセット」KSSモデル入荷の知らせにまずは店を訪れた村田に対し、多田は「どうだい、最新のモデルだがオート バイ造りには参考になると思うが?」と購入を強く勧めた。レーサーマシンとしての名声も高く、参考にしても損はない。 そう判断した村田はこのオートバイを手に入れることにしたのだった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   当時国産のオートバイは市販に至る製品がほとんどなかった。どうしてもコストが合わないのである。昭和8年になり ようやく国産のオートバイが見られるようになった。自転車製造の宮田製作所による「アサヒ号」である。  宮田製作所は今でも宮田工業として自転車製造会社と知られ明治期よりの盛業である。オートバイ黎明期より自転車 製造技術を活用して試作の後、昭和8年に国産オートバイの製品化に成功していた。「アサヒ号」AA型は日本で最初の 量産車となり鋼板プレス製のフレームを使って量産効果を高め、唯一コストの合う国産バイクとして販売したのである。  昭和11年には国産ハーレーとして「陸王号」で知られる陸王内燃機が製造を開始する。陸王内燃機は前身の 三共内燃機が親会社である三共製薬の出資で米国ハーレーダビッドソン社の旧式製造ライン一式をライセンス込みで買い 取ったのが始まりである。つくられるバイクは完全なハーレーのコピーであるため高性能でしかも安価なことから国内の ハーレー需要は「陸王号」に換わっていった。この件では買収当時国策としてオートバイの国産化を急ぎ、軍部の需要を 確保する目的といち早く軍用バイクの高性能化を実現するために国が補助したのではとの話がある。実際に三共内燃機は 国策会社として陸王内燃機に改組され戦時中は軍用バイクの唯一供給会社としても活動した。  大阪でも同じ頃、国産オートバイが市販されている。「キャブトン号」である。大阪で英国アリエルなど輸入二輪車を 販売していた中川幸四郎商店が、世界恐慌の煽りによる価格高騰で成り行かなくなり、国産バイクの製造と販売を企画。 名古屋の自動車部品製造業・みづほ自動車製作所に造らせたオートバイであった。  中川幸四郎はこのオートバイに「Come And Buy To Osaka Nakagawa 〜 大阪の中川幸四郎商店に来て買ってください」 というメッセージを込めて「CABTON」と名付けたのである。最初は昭和8年にアリエルの車体をコピーし、兵庫 モーター製作所の三輪車「H・M・C号」のMAGタイプ4サイクル単気筒498ccOHV4サイクルエンジンを買って 完成させたようで、これは「メグロ」より先に「目黒製作所」のエンジンが市販オートバイに使われたということになる。 その後昭和10年より名古屋の機関メーカーであったみづほ自動車製作所に替えて米国インディアン社の4サイクル単気筒 348ccSV4サイクルエンジンをベースに開発、アリエルの車体に載せた「キャブトン号」が本格的に販売されること となり、それはちょうど「メグロ」がオートバイを考えていた時期であった。戦前期には600台あまりの販売実績を上げ 一応の成功は収める。  他にも栗林商会の「リツリン号」、名古屋のメーカーによる「ノーリツ号」など市販を試みた所があったが、その殆どは 実績が上がらない状況にあった。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         八重洲出版「Old−timer」No.70 より「戦前自動車競争史2」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)