〜メグロの履歴室〜:メグロ号誕生(1)  村田延治は無類のオートレース好きであった。当初は客寄せ興行として大正期に始まったオートレースは今のギャンブル レースとは本質的に異なっていた。オーバルダートのコースを周回して競うそれはギャンブルレースとほぼ同じではあるが それは危険を伴うレースでもあった。そのためか昭和7年の開催を最後にオートレースは中断していたのである。村田も自身 で参戦したこともあったようだが、レーサーマシンを作ったことはなかった。  鈴木高治の甥で後に「目黒製作所」取締役となった鈴木武雄は、当時の村田を「トライアンフを乗り回していました。その頃 は、メインスタンドしかなくて私はバイクを立てるのにひと苦労。エンジンをかけるのもたいへんでした。ちょっとのキック じゃ寸とも始動しない。止めるのも装置が無いからプラグはコードを巻き付けておいて止める瞬間に外すのですが、村田さん はアマチュアレースに出ていたので上手かったですよ」と、後年回顧している。  オートレース再開の知らせに村田は「観戦」ではなく「参戦」を考えたのである。今のメグロなら機関も変速機も用意ができる。 無いのは車体だけだ。とりあえず車体を用意して走らせてみよう、とその仕事を旧モーター商会から移ってきた日野文雄に させた。日野にとっては当に天職である。早々にこれらをまとめ上げて一台のレーサーマシンを完成させた。機関は自社開発の MAGタイプ4サイクル単気筒498ccOHVガソリンエンジン、変速機も自社の「メグロ」ギヤーボックスからオート レース用に開発した。車体はオートレースで実績のある英国ダグラス社のバイクを参考にフレームを開発、メカニックであっ た日野なら相当の試作車を用意できたと想像できる。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   再開最初のレースが昭和9年10月に東京・井の頭公園内に設けられた専用コースにより開催されることになり、村田は オートレース用の試作車をもって参戦を決めた。レースの指揮をとるのは日野である。レースは予測通りメグロの他は すべて外国車による参戦となった。スタートと同時に各車一団の状態で周回を始めるがやがて多くのバイクは一台また 一台と脱落していった。その多くはダートコース特有の跳ね石による機関の破損であった。最新のMAGタイプを模した メグロのエンジンはこのような障害も無く完走。ゴールしてみると堂々二位入賞であった。  この結果には村田や日野以上に観衆が驚いた。国産車が初めて外国車に抗して走ることができたのである。村田は当然の ことながら大きな自信を得て更にレーサーマシンの改良を決意し翌年のレースまでに一級車(601cc〜)クラス用と 二級車(500cc)クラス用の二台の製作にかかった。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   昭和10年春、米国から一人のレーサーが来日していた。スタントマンとして名声を得ていたパット・モスマンである。 日米親善オートレースに参加するためであったが、その合間に各地でスタントを交えた興行もしていた。村田延治は彼が 米国から持ち込んだJAPのレーサーマシンに注目する。特徴あるフレームとフロントのスプリンガーフォーク。 特にダートのコースに対してその機能は実に有効であった。  直感的に村田はこのフレームとフロント構造をもとに次のオートレースに間に合わせてレーサーマシンの改良をしたがその 成果は直ぐに結果として現れる。  そして迎えた昭和10年10月6日、先年に同じ東京・井の頭公園内のオーバルダートの専用コースでメグロのレーサーは 村田らの眼前で堂々一番にゴールを駆け抜けたのである。その戦果は、  ・一級車(12周)一位(レーサー:古田正治)  ・一級車(15周)一位(レーサー:大山栄治)  ・二級車(15周)一位(レーサー:田代郁夫) 観衆は国産車が初めて外国車に勝ったと大騒ぎになったのである。村田らはこの戦果を元にオートレース活動を本格化させ、 自社のエンジンをフレームに載せて各地で開催されるレースで次々と実績を上げていった。 昭和11年6月7日、東京・井の頭公園内の専用コースでの戦果は、  ・一級車(15周)一位(レーサー:平田友衛)  ・二級車(15周)一位(レーサー:田代郁夫)  ・三級車(15周)一位(レーサー:大山栄治) 同年10月4日、新たに開設された東京・多摩川スピードウェイの専用コースでの戦果は、  ・二級車(20周)一位(レーサー:田代郁夫)  ・三級車(15周)一位(レーサー:大山栄治) この他にも同コースや羽田でのコースで開催されたオートレースで好成績を修めていったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田たちのレース活動はこうして予想もしない好結果を生みだし「目黒製作所」の知名度が「メグロ」ブランドに 変わってきた。その最中、オートバイ開発の中心に居た日野が「目黒製作所」から抜け出ることになった。  キャブレターなど自動車部品輸入商社の三国商工へと移籍することになったのである。特に日野のエンジンチューニング についての技術が買われてキャブレターの国産化に注力することが目的であったようだが、これは村田も日野も納得しての ことであったのかどうか定かでは無い。この後、戦後の「目黒製作所」復興時に日野はメグロに復帰するのではあるが。  「メグロ」が自動車部品メーカーのイメージから、オートレース参戦によって変わりつつあることを感じていた村田は、 このとき遂に「目黒製作所」による市販オートバイの開発を決意したのである。日野のノウハウが「目黒製作所」に残って いるうちに完成させよう。こうして昭和10年、国産の市販オートバイ「メグロ号」の開発がはじまる。(つづく) (*この文章は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」         二輪史研究会資料「メグロコレクション」         二輪史研究会資料「メグロ製作所社史」         八重洲出版「日本モーターサイクル史1945-1997」より「懐かしの名車STORY“メグロ物語”」         あすか書房「日本のヴィンテージバイク」より「“メグロマーク”の消えるまで」  より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)