〜メグロの履歴室〜:目黒製作所創業まで(1)  メグロ史を記述する上で、そのほとんどがメグロの創業者であり経営者であった村田延治の一代記であることは いうまでもない。しかしながら、村田が最初からモーターサイクルの製造を目的として事業を興した訳ではない。 村田の「東京で一旗揚げたい」という独立心が根底にあり、結果として自動車部品、そしてモーターサイクル製造 に発展していったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   村田延治は明治33年4月1日、栃木県足利郡富田村大字駒場(現在の栃木県足利市駒場町)の農家、村田平吉 の次男として生まれた。当時の日本では百姓の次男坊は子供のうちは家業の人手として重宝されるが、将来は奉公 に出て後に独立するか、職業軍人に成るか程度の道しかなかったのである。 村田もやがて富田村尋常小学校の商業科を卒業した後、近隣の農家、岡部家に百姓奉公に出された。  岡部家での奉公は約一年半であったが、村田はこの時「東京で一旗揚げたい」という気持ちを強く持ったという。 そして、何とか上京するきっかけを模索していた。 そのような折、同郷で幼なじみでも在った川崎茂平の世話により村田は上京の機会を得たので在る。 早くに東京へ出た川崎が工員として務めて居た麻布広尾町の友野鉄工所に見習いとして入ることになったのである。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  友野鉄工所は当時最先端の技術で在ったガソリン機関を開発して居た町工場であった。 経営者の友野直二の家系は、江戸時代からの刀鍛冶で知られたが、明治維新の廃刀令により仕事に窮する。 この時、友野の先代は刀鍛冶の技術を基に、明治維新の断髪令に拠って起こった西洋床屋(理髪店)で使うはさみ を完成させて居た。  友野自身はこの金属加工の技術を利用してガソリン機関の開発を試みる為、明治44年7月18日に友野鉄工所 を興したので在った。 友野は直ぐに船舶用2馬力ガソリン機関の開発に成功、その後の大正4年には船舶用25馬力・二気筒機関を完成 させるなど、日本での船舶機関の第一人者でも在った。 そして友野は他にもモーターサイクル用機関や飛行機用機関などを開発して居た。 これが村田を、モーターサイクル製造という目的につなげていったので在る。  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  大正4年春、村田は川崎茂平の世話により友野鉄工所の見習い工となった。 ここで、昼は機械の製造技術を、夜は友野の勧めにより芝浦工手学校の夜学で機械工学の基礎を学び、機械工とし ての腕を持つことに専念する。  大正10年、友野鉄工所での務めも7年を経ようとした頃、一人前の機械工として見極めたかのように、友野の 勧めで縁談の話が出た。 当時、友野家に行儀見習いとして来て居た田中こまを相手にと、友野の媒酌により縁談がまとまりこの年に所帯を 持つ。 しかし所帯を持つことは食い口が増え、只でさえ少なかった月給ではやっていけなくなった。 村田は苦しい生活の中でも「東京で一旗揚げたい」という初心を捨てず、機械工の腕で独立したいと考えていた。 「このままではいくら働いても月給は増えない。小さくても良いから、自分の工場を持ち、好きな部品が造って みたい・・・」 そう思う頃、ふとした話から村田がモーターサイクル製造のために独立する機会が訪れた。                                               (つづく) (*この項は、二輪史研究会資料「メグロ資料集」より参照、構成しています。) (*登場者の敬称は省略させていただきます。)